野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(7)
(↑ 葛。〔酒井抱一の銀屏風 「風雨草花図」 (通称:「夏秋草図屏風」、左隻のみ)、1850年、Natsu aki kusa-zu byobu 2.jpg 東京国立博物館蔵、
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只野伊賀は、一年おきに江戸と仙台を往来する生活で、真葛が留守を預かる時間は長く、冬の寒さも厳しかった。だが新しい家族とのつきあいは深まり、しだいにその土地ゆかりの興味深い話をきかせてもらえる間柄になった。
孤独ゆえの共感能力に富み、和文脈の素養が下地にある真葛は、倍音を響かせるように人の話を聴きとることのできる、たぐいまれな受け皿をもっていた。家族以外にも真葛に話をきかせてくれる人びとが現れる。
真葛はよき聴き手として、土地の暮らしに根をもつ伝説や逸話、奇談や怪異談を採集し、書きまとめるようになった。柳田國男『遠野物語』を連想させるこの仕事の系列は、のちに『むかしばなし』の一部や、馬琴に送った説話集『奥州ばなし』のかたちで結実することになる。
聞き書の作業を通じて、言葉がうまれてくる過程そのものへの関心を深めた真葛は、国学者の賀茂真淵(1697-1769)の著作を読み、感銘をうけた。言葉は、人が漢文で儒教や仏教を学ぶよりもはるかに前に、小さな人びとの暮らしの、言葉でない場所から立ちあがってきたものなのだ。そう感得されると自分でも文を書きたくなってくる。
真葛がまず書いたのは、のちに自選の作品集『真葛がはら』(1816)にも収められることになる、「塩竃まうで」をはじめとする紀行文だった。真葛の紀行文の特色は、そこに現われる土地の人びとの一人一人の肖像とその発語のもつ奥行きが、鮮やかに書きとめられようとしていることである。書くことは孤独な営みだが、同時にそれはもう一人の自分、既知の他人、そして未知の他人へと広がりうる不思議な営みでもある。「みちのく」と呼ばれる地で真葛は、一人の書き手としての自分を見いだしたのだ。
だが、寛政12年(1800)12月10日、真葛が愛し、それゆえに傷つけられもした父平助が67歳で世を去った。長患いだったため多くの借財がのこされた。
時期は特定できないが、残されたきょうだいを支える責任を感じた最年長の真葛は、7人をそれぞれ違う香りをもつ秋の七草にたとえた弟元輔にならい、元保を藤袴、しず子を朝顔、つね子を女郎花(この三人は故人)、元輔を尾花、栲子を萩、照子を撫子としたうえで、自分自身(あや子)については、弟妹を守る大きな葉を広げる葛の花になぞらえた。「真葛」の筆名の由来である。
文化元年(1804)、先年来航したロシア使節ラクスマンに幕府が与えた信牌(長崎への入港許可証)を持参して、新たな使節ニコライ・レザノフが、仙台の若宮丸の漂民津太夫ら4人を伴い長崎に入ったが、幕府は約束を違え、使節の要求をすべて拒否した。
レザノフは激怒。以後日露間の緊張が高まり、仮想敵ロシアの開国要求を拒む手段として「祖法としての鎖国」という観念が強化され、幕末の攘夷論の一背景を形成するにいたる。
文化4年(1807)には、平助の斡旋により仙台藩に召し抱えられていた大槻玄沢が、津太夫らの聞き書をもとに『環海異聞』を完成した。夫伊賀や弟元輔から、真葛はその内容を伝え聞いていた形跡がある。
忘れられつつある先行者平助の思索を自分なりに学びほぐし、工藤家の家学の継承者として世に立ちたいという悲願が、真葛の胸をたぎらせるようになった。
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