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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第二話 高山彦九郎(3)

(2)からのつづき
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 日本列島の思想と文化は、ユートピアを構想する力の弱さを特徴としている。現実世界に矛盾を感じた際にも、現実のさまざまな制約に注意を奪われて、理想の世界を思い描き、現実世界の構造を根本から批判しうるモノサシをつくり育てる伝統に乏しいのだ。

 だが18世紀から19世紀にかけての列島では、過去の歴史にはなかった仕方で、ユートピア的構想力の萌芽が育まれた。

 そのモトになった一つは、大黒屋光太夫をはじめとする漂流民の経験である。彼らは、見知らぬ土地でともに生き残るために、身分本位の習慣が無益なことを思い知り、そこで生きる技術をもつ者からは誰からでも謙虚に学びあう新しいつきあいの作法を編み出したし、現地で外国人との交際に入っていった場合は、列島とは異なる慣習や制度があることを見きわめる力を養いもした。

 もう一つのモトが、列島の諸地域に古くから伝わる信仰や神話への想像力に支えられた尊皇思想である。
徳川主導の身分制社会とは違う、列島の各地域の条件と結びついた社会がかつては存在したし、これからも創造しうる。
この信念を支えるフィクションとして祖先崇拝が、それをまた支える一つのフィクションとして尊皇の観念が位置づけられていく。
この文脈につらなるのが高山家、そして彦九郎だった。

 明和元年(1764)3月、18歳の彦九郎は、祖父に置手紙を残して郷里を出奔し、京都に遊学した。長い旅行歴の始まりだ。

祖父への手紙(レプリカ)
(岩山台吉 『高山彦九郎遺墨』明治26年1月、私家版
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/852964)


 この時期、修学者の多くは権力に近い名利の地江戸に向かったので、まっすぐ京都をめざした彦九郎は特異だった。彼をとらえていた関心は、今の社会で出世しようという“名利”ではなく“名分”、いいかえれば権力支配の正しさの根拠である。

権力支配には、正しいものと正しくないものとがある。正しい政治とは、武力で脅し人民を支配する武断政治ではなく、人びとが身分を超えて協力し、学問の力で世を治める文治政治だ。
体制に抗い文治政治の根本を学ぶ地は、文治本来の中心たる御所がある京都でなければならない。彦九郎の場合はそう考えた。

 この上洛の際、三条橋に着いた彦九郎が地に坐し御所を拝跪したという逸話を、頼山陽(1780-1832)が書き記している(「高山彦九郎伝」、彦九郎の知己だった父春水から聞いた話にもとづく、漢文による短い伝記)。

通行人が集まり怪しんで笑っても、彦九郎はまったく顧みなかったという。

三条大橋の東詰に立つ高山彦九郎「土下座」像*

現在三条大橋の東詰に立つ「土下座」像は、この逸話をイメージ源として建てられたものだが、相手の前で全身を地面に投げだす身ぶりは、相手が誰であれ、彼にとっては奇矯なものではなく、ごく自然な敬意の表現だったのだろう。

*ヘッダー:現在の京都三条大橋*

→ 高山彦九郎(4)へつづく
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