野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第二話 高山彦九郎(4)
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翌明和2(1765)年に母しげが、その翌年には祖父貞正が世を去った。
その悲しみが癒えないうちに、一大事件が起きる。
上野国小幡藩に門人多数をもち、独自の尊皇論を唱えていた思想家山県大弐(1725-67)が、藩の内紛に巻き込まれ、謀反の罪で処刑されたのだ。
大弐は、8年前の著作『柳子新論』のなかで、鎌倉期以来の武士による政治権力の独占自体を非とし、『孟子』の放伐論(悪政を行う君主の討伐・放逐を認める)を根拠に、覇権の支配を終わらせ世に「礼」をもたらす「傑然たる者」のみが支配者に値すると述べていた。ここには、ちょうど同時期に地球の裏側で、力ではなく人民同士の約束のみが権力の正当性の根拠だと主張した、ルソーの『社会契約論』(1762年)にも通じる考え方がみてとれる。
大弐と彦九郎とは直接面識があったわけではなかったようだが、大弐は、崎門学(神道的儒学)と垂加神道(儒学的神道)の創始者山崎闇斎(1619-82)の系統をくみ、若き日の彦九郎もまた闇斎の影響下にあった。
闇斎は、放伐論を認めず天皇への絶対的臣従を掲げた点で大弐と異なってはいたが、その主張は、幕府の役割を認めた自身の思惑を超え、幕藩体制自体の否定にも帰結しうるきわどさを秘めていた。
同じ精神圏にいた大弐の刑死から、彦九郎が衝撃を受けなかったとは考えにくい。
そのわずか2年後の明和6年(1769)、父彦八が神社への参詣の途中、何者かに殺された。
筒井家の手の者の仕業とも言われている。
23歳の彦九郎は、敬愛する師の儒学者細井平洲(1728-1801)に復讐の決意を告げたが、厳しく制止された。
平洲は、あなたはもっと大きな義のために生きなければならない、それこそが親孝行だと諭した。
この逸話は、学問の本質は学派や流派の別ではなく社会問題の解決であるという、自由で実践的な学問観が彦九郎にもたらされた事実(その関心は朱子学、崎門学、陽明学、国学、和歌、神道、さらに蘭学に及んだ)とともに、その後の彦九郎の人生のなかで、「義」という言葉が最後の一瞬までもつことになる意味の重さを伝えている。
・ヘッダー:高山家跡(群馬県太田市細谷町、彦九郎記念館隣)*
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