野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第二話 高山彦九郎(5)
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彦九郎は、30数か国を精力的に遊歴した旅行家であり、体系的著作のかわりに彼が書きのこしたのは、29種41冊の膨大な旅日記だった。
総髪帯刀の彦九郎は、列島各地を一人の草莽(在野の有志者)として見て歩きながら、「義」とは何かを語り合える師友とのネットワークを作った。各地の善行者を訪ねてはその記録を作り、勝手に顕彰したりもした。
遊学や修業、講やおかげ参りなど、さまざまな身分や階層の人びとが「分」をわきまえずに移動する慣行が広がったのは、同じ18世紀後半のことだ。
旅の逸話。
播州の百姓が小さな罪で獄に入ると、同囚に山賊がいた。天狗をみたことはないか、と尋ねてみると、
「一度だけある。夜、山中にたたずんでいたら、図体のでかい男がやってくるので、仲間と4人で道をふさいで酒銭を乞うと、慮外者め、と怒声を浴びせ、去っていった。その大声が山に響いて何とすさまじかったことか。眼光の恐ろしさといい、あれが天狗というものだろうよ」。
あとでその話を百姓が主人にすると、確かにそれは彦九郎だ、と言った(菅茶山「記高山正之事」)。
彦九郎の没後にうまれた西郷隆盛は、主筋にきらわれて沖永良部島に流されていたときに、この話をもとに漢詩をつくり、窮境にある自らを励ました。
彦九郎が旅の先々に強い印象を残して伝承や伝記を生み、幕末の志士たちを奮い立たせた機微が、この一事からもつたわってくる。
天明2年(1782)10月、中山道経由で上洛する際の逸話。途中、伊勢参りにいく弥惣次という男に道連れをせがまれた。自分は博徒だときかされて、博打はやめろと意見したが、弥惣次は、これだから身分の上の人には何も言えねえ、と気に入らず、彦九郎は腹を立てた。
その弥惣次が木曽の宿で病を得る。彦九郎は地元の医師に往診を頼み、看病も尽くすが重篤になる。宿場の者が、先を急ぎなさい、誰も非難はしませんと気づかうと、彦九郎は答えた。
「命はおしきもの也、命よりも義ハ重モし、予が行クは義なれ共義を減ンじて命を救ハむとす」。
そうして看病をつづけるうちに、宿場の者も協力的になる。弥惣次の命が助かったのを見届けて、彦九郎は京をめざした(『上京旅中日記』)。
※ヘッダー:岩山台吉 摸『高山彦九郎遺墨』明治26年より
(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/852964)
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