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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その10)

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←(その9)からのつづき

第一話 大黒屋光太夫(その10)

【4】(のつづき)

幕府がきめた光太夫磯吉の扱いはこうだった。

(1)困難をこえて帰国した奇特な志に対し、金30両ずつを与える。
(2)江戸番町お薬園内に住居を与え、月々の手当ても支給する。
(3)妻をよぶのは自由。
(4)ただし外国の事情をみだりには語らぬこと。

2人が海外渡航の禁にふれたのは確かだが、今後の対露交渉には必要な存在だとみなし、好条件とひきかえに江戸につなぎとめたのだ。

その後、光太夫磯吉も妻をむかえた(光太夫は再婚だが、最初の妻の消息はわからない)。

磯吉は寛政10年(1798)、光太夫は享和2年(1802)に、それぞれ許可を得て一時帰郷。親類縁者、神昌丸の遺族や関係者を訪ねている。

故郷、伊勢若松に建てられた神昌丸乗組員全員の供養塔
(神昌丸遭難の後、全員死んだと思われ建てられたそうです〔編〕)
(撮影著者)

 文化元年(1804)、ロシア使節レザノフが、仙台藩領からロシアに漂着した若宮丸の漂民4人を伴い長崎に来航した。(幕府は漂民を受けとったが、信牌(しんぱい)を反古にして通商要求を拒絶した。)

若宮丸の漂民の記録の作成に際し点検を求めてきた蘭学者大槻玄沢を通して、光太夫は庄蔵新蔵の消息を知った。
庄蔵は8年前、若宮丸の1人にみとられ45歳の生涯を独身で終えていた。
新蔵は、若宮丸漂民皇帝謁見時の通訳までつとめたが、庄蔵との関係は避けていた(6年後に52歳で死去)。

庄蔵と新蔵にとって、ロシアでの選択はあまりにも苦しいものだった。きびしい状況のなかで個々人の選択が避けられなくなったとしても、その苦しみを極力少なくする仕組みが人間社会には必要だと、光太夫は考えたのではないだろうか。

(その11)へつづく

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ヘッダー画像レザノフのナジェージダ号
(国立公文書館デジタルアーカイブ、視聴草(レザノフ長崎来航))
著作者:不明 Copyrighted free use


★参考文献

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〔編集人〕

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