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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その11)

★ヘッダー画像:光太夫が書いたとされる地図
ゲッティンゲン国立大学図書館 (Göttingen State and University Library
アッシュ・コレクション(Sammlung Asch)所蔵。(詳細はページ末に↓)

(その10)からのつづき

第一話 大黒屋光太夫(その11)

【5】


 
 嵐による漂流もどの土地に漂着するかも、自分の意志では選べない事柄だ。漂民になれば、故郷で身につけた習慣や作法の限界に向き合わざるをえない。
光太夫は、異郷の人びととわたり合い、生き抜いていくうちに、自分の意志で道をきりひらく個人としての力量と風格を育てていった。
でなければ、さまざまな条件の助けがあったとはいえ、国の最高権力者と直接交渉し、ロシアからの初めての生還という壮挙を実現することはできなかっただろう。
日本にいた時であれば、将軍への直訴という方法は思いもよらなかったはずである。

 文政11年(1828)4月11日、光太夫は江戸で78歳の生涯をとじた。光太夫との信頼関係を保ちつづけた磯吉が75歳で世を去ったのは、その10年後だった。

**大黒屋光太夫・磯吉画幅(三重県鈴鹿市教育委員会蔵)
**(鈴鹿市教育委員会蔵・大黒屋光太夫記念館)将軍に謁見の時の図か

同じ構図でいろんな顔の光太夫と磯吉が描かれているのですね〔編〕
**画像について


 光太夫はロシアでの話をもとめられる機会が多かったが、のこされた記録をみると、相手のありようをみきわめて対し方を変えていたことがうかがえる。
75歳の光太夫を訪れた国学者(小浜藩士)伴信友の訪問記が残っている。

「性、強気なりと見ゆ。帰国の後、高貴の方々を始め諸人に馳走せらるるに慣れて気随になり、自ら老を称してますます心驕れるさま也。言語逼りて疾く、又溢るるごとく聞きとりがたき多きを、再び問いかえすときは、倦みて答えざること多し」(「光ママ夫談筆記」)。

この手記の記載が型通りの問答録に終始しているところをみると、訪問者には、目の前にいる人間の値打ちがわからなかったのだろう。
その相手から「心驕れるさま」と罵られるところに、個人としての光太夫の面目が息づいている。

大黒屋光太夫記念館(三重県鈴鹿市)前の大黒屋光太夫像
(著者撮影)

野口良平「幕末人物列伝--攘夷と開国」第一話 大黒屋光太夫(了)

→ 野口良平著「幕末人物列伝」マガジンtopへ(目次になってます)
→第一話 大黒屋光太夫(その1)へ(文末に著者プロフィール)

ヘッダー画像:《大黒屋光太夫が書いたとされる日本の地図。裏面には墨書で「天明歳七月末日大日本国伊勢国白字大黒屋幸太夫」とある[1](1789年)。ロシア陸軍医師をしていたゲオルク・トーマス・フォン・アッシュ (de:Georg Thomas von Asch) がゲッティンゲン大学に送ったカードには、ドイツ語で「1793年イルクーツクで受け取る」と記してあった。ゲッティンゲン国立大学図書館 (Göttingen State and University Library) アッシュ・コレクション(Sammlung Asch)所蔵。》=下リンクページ掲載の解説
パブリック・ドメイン

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Daikokoya_Kodayu_-_Landkarte_von_Japan.jpg?uselang=ja

参考文献

・本文の著作権は著者(野口良平)に、版権はけいこう舎にあります。
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〔編集人〕

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