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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第三話 只野真葛(ただの まくず)(6)

(↑ 仙台・只野家の屋敷近くの扇坂)*

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 真葛が実家に戻った翌年の寛政2年(1790)6月、蝦夷地への旅(実際には津軽までしか行けなかった)を前にした高山彦九郎が数寄屋橋の工藤家を訪れ、平助と朝食をとりながら面談している。真葛は彦九郎と言葉をかわしもしたかもしれない。

 寛政4年(1792)9月、ロシアで10年の歳月を送っていた伊勢の漂民大黒屋光太夫、小市、磯吉が、対日通商を求める使節アダム・ラクスマンに率いられて根室に到着した。病死した小市をのぞく2人が、翌3年(1793)松前で幕府に引き渡されたのち江戸に送られたが、松前藩医で平助の弟子米田元丹がその行程に付き添い、光太夫と磯吉の体験談をじかにきく機会を得た。
元丹は、江戸でさっそく平助に報告する一方で、「幸太夫に附添ひ松前より来り候医師米田元丹物語の趣き」という小冊子をつくった。
また平助は、元丹から得た情報を「工藤万幸聞書」としてまとめ(「万幸」は平助の号)、10年前の加摸西葛杜加カムサスカ国風説考』の内容を上書きした。

 寛政6年(1794)、平助の年少の知人桂川甫周が、光太夫らからの聞き書をもとにした画期的なロシア研究『北槎聞略』をまとめた。この本は機密文書だったが、おそらく平助は甫周から詳細な情報を得ていたことだろう。

現在の築地。桂川甫周屋敷跡*


元丹と甫周のもたらした情報をめぐって、平助と真葛とのあいだに会話が重ねられたことも、想像にかたくない。真葛にとって、旅行家や漂流民の見聞や体験は、こうした回路を通して、自分の眼で物事を判断するものさしを形づくる助けになったのだろう。

 真葛の数寄屋橋暮らしは8年におよんだ。この間、他家に嫁いでいた妹のしず子が工藤家で息をひきとった。産後にひどく体をこわしたのに、婚家でまともに面倒をみてもらえず、戻ってきたのだった。
光太夫らが帰国した年には、がこの世を去る。すると、父の老いと不調が表に現われるようになった。弟の元輔はまだ若い。工藤家の柱石の位置に立たされるなか、真葛は、たとえ女であっても、工藤の家風と学風を後世につたえるのは自分なのだという責任と矜持とを持するようになる。

 寛政9年(1797)、35歳の真葛は、仙台伊達家の高禄(1200石)の家臣・只野伊賀行義(?-1812)と再婚した。先方は妻に先立たれたばかりで、幼い子らの世話を期待していた。
真葛は気が進まなかったが、先方の工藤家への肩入れを期待する64歳の平助の意向をくみ、9月、決死の覚悟で仙台に赴いた。事実、二度と真葛は江戸に戻らなかった。

 只野家は、藩祖伊達政宗以来の古い家柄で、加美郡中新田に知行地をかかえていたが、地行支配は家臣に任せ、一家は仙台城二の丸近くの元支倉扇坂の屋敷で暮らしていた。

仙台城二の丸付近。真葛の住む只野屋敷はこの近くにあった。*


真葛には拍子抜けするほど意外なことだったが、新しい夫の伊賀は、武芸のたしなみも文人的教養もユーモアもあり、周囲への心配りのできるひとかどの人物で、慣れない異郷の地にありながら、真葛はしだいに信頼感を寄せるようになった。

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