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寺田和代「本と歩く アラ還ヨーロッパひとり旅」 第1回 アイルランド篇 ――(3)

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アイルランド篇――
(3)はるばる来たよ、アラン島を望む断崖へ


 翌朝9時、モハー断崖巡りツアーバスに乗り込む。
老若男女約30人の乗客はほぼ欧米系で、アジア顔は私と若い韓国人女性3人グループだけ。
戦争や圧政、飢餓などと無縁の国々からの旅行者。おりしもその朝のBBCニュースではロシアのウクライナ攻撃激化が伝えられていた。人は生まれる時代も場所も選べない現実を、この瞬間もひしひし…。

アイルランド西部の大西洋に面するモハー断崖は、海面から最も高い所で214mもの断崖絶壁が8km以上続く。
バスを降りるや体ごと持っていかれそうな海水含みの強風に煽られ、思わずしゃがみこんだ頭上を海鳥が“よう来たな”とでもいうように低空を猛スピードで突っ切っていった。
コートのフードをかぶって顎ひもをぎゅっと絞め、立ち上がった目の先いっぱいに、見たこともないパノラミックな地形と景観美が広がっていた。 

2、切り立った屏風のような断崖が8キロ以上続くモハー断崖。断崖は海鳥の天国



現代アイルランド文学を代表する人気作家の一人、1962年生まれのアン・エンライトは2023年初めに邦訳が出た長編小説『グリーン・ロード』の舞台(=タイトル)“緑の小径”の設定をこの辺りとし
“ゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島を見渡すことができる。ずっと南にはモハーの断崖。この小道がやがてグリーン・ロードと呼ばれる緑の小径となり、北はファナー村の海岸を見晴らすバレン高原に続く。世界で一番美しい道だ。まさに絶景”(アン・エンライト『グリーン・ロード』伊達淳訳、白水社より抜粋) と記した。

アンとほぼ同世代の作家、クレア・キーガン『青い野を歩く』所収「クイックン・ツリーの夜」のヒロイン、マーガレットの人となりを表す一文に
はるばるモハーまで歩いて、断崖を見下ろし、スリルを味わった。ときには雨のなか、髪も羊皮のコートもすっかり濡れて断崖に立ちつくし、神父を思うこともあった” (クレア・キーガン『青い野を歩く』岩本正恵訳、白水社より抜粋)とある。
小説とはいえ雨のなか、ひとりこの断崖に立つ女性の、尋常ならざる姿と心情をありあり想像してしまう。晴れた日中、大勢の旅行者が視界にあってさえ緊張を強いられるのだ。

強風に煽られながら崖沿いの道20分ほど歩いた先の海に、イニシュモア、イニシュマーン、イニシィアの3島からなるアラン諸島がかすむ。あそこね! アイルランド語(ゲール語)の、妖精の、口承伝説の、ルーツは。

畏怖と憧憬が入り混じるイメージ醸成に大きな影響を与えたものの一つは、約100年前に書かれ、今なおその文章に魅せられてやまない旅行者を世界中から集めるジョン・ミリントン・シング『アラン島』だ。

ダブリン生まれの若者が島に滞在しながら見聞きした島の暮らしや漁仕事、はたまた酒場や民家で島人と囲炉裏を囲みながら聞いた言い伝えや妖精伝説などを、細やかな観察眼と軽やかな筆致で記した文学的紀行文。名訳のおかげで、邦訳版を読むだけで島に連れていかれる楽しさがある。
生活様式や島人気質について詩的で格調高い記述があるかと思えば、訳のすばらしさも加味された船長(漁師)の言葉は “だんな、奥方のことは愛してなさるんでげしょうか” (J・M・シング『アラン島』栩木伸明訳、みすず書房より抜粋)なんて調子なのだ。
その緩急にページを繰りながら何度、口元がゆるんでしまうことか。


柵にもたれて島影をぼんやり眺めている間にも、旅行者が次々やってきてはそちらにカメラを向け、あれがアラン諸島か、と感嘆の声をあげている。異郷、伝説、目に見えないものへの関心や憧れは、どの国どんな背景の人にも共通なんだ。

再びバスに乗車して約20分、アラン諸島行きの船が出るドゥーリンという小さな港町で1時間の休憩。
土壁に藁の屋根、キャビンと呼ばれるアラン諸島含めたこの地域の建物様式を模した数軒のカフェや土産物屋が並ぶ。
とりわけ年季が入っていそうな建物のパブを選んで、ビールとシーフードチャウダーでランチにする。

アラン諸島行きの船が出るドゥーリンの街並み。伝統的な家が再現されている


またそれ? と呆れることなかれ。地元のソウルフードともいうべきシーフードチャウダーは、店ごとに食材や味わいが異なる上、おいしいパンの一切れもあれば、栄養バランスも食事としての満足も文句なし。なんであれ、伝統とされる料理の奥行きは深く、味にハズレはないのだ。


(4)地底から、海から、妖精の声が響く へつづく
著者プロフィール(アイルランド篇 top)

【ブックレビュー】『グリーン・ロード』『青い野を歩く』(レビュー:寺田和代)
【ブックレビュー】『アラン島』(レビュー:寺田和代)

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