齋藤太郎のちろり持参ですVol.2
連載 齋藤太郎の“ちろり持参です”
文・齋藤太郎 写真・児玉大輔
“TOKYOの酒”を発信!
1500人のファンが集う
首都の酒蔵
豊島屋酒造株式会社(東京都東村山市)
都心から電車で30 分。“東京の酒” をポジティブに国内外に発信し、年間30 回ものイベント、フェスでにぎわう酒蔵を訪ねた。
豊島屋酒造営業部長の田中孝治さん。軽妙な話術で蔵を案内してくれた。
心に宿った情熱
20年前、勝負に出た
口に含んだ瞬間に広がるやさしい甘みと短い余韻が特徴的な日本酒を醸す豊島屋酒造のルーツは、徳川家康が江戸幕府を開くより前まで遡る。
1596年、江戸・神田鎌倉河岸(現在の東京都千代田区)の酒屋兼一杯飲み屋を始祖とし、昭和初期に酒屋と醸造元を分ける形で、現在の東京都東村山市に豊島屋酒造が設立された。
以来、地域に根ざした酒づくりで人びとに愛され、代表銘柄の「金婚」は、明治神宮、神田明神の東京二大神社へ御神酒を納める蔵としても知られている。樽酒を結婚式に用いる習慣も豊島屋酒造が初めといわれている。
長い歴史を持ち、伝統を守り続けてきた豊島屋酒造だが、次期後継者で営業部長の田中孝治さんが家業に戻ってきた頃は、「東京の地酒」に対する世間の評価は厳しいものだった。
「人口密集地で米も穫れない、水も美味しくないという先入観が強く、百貨店を訪問しても〝東京の酒なんて〟と相手にされませんでした。ただ、当社は醸造酢メーカーの生産を相当量受託していたこともあって、経営自体は安定していたのです」
自分たちの商品が評価の対象にならないことに自問自答する日々の田中さんに転機が訪れたのはそれから数年後のこと。たまたま入ったお店で出会った愛知県の「醸し人九平次」を飲んで驚愕することになる。
「世の中にはこんなにも美味しいお酒があることをこの時初めて知りました。あの衝撃は今でも忘れません」
そして田中さんは都内の有名な販売店を訪問し、再びがく然とする。
「店には煌びやかに酒が並び、それぞれが自分たちの魅力を力強く主張していたのです。自分たちの商品には何の訴求力もないことに気付かされました」
田中さんにとって、そこで見た光景は全く新しい世界であった。そして同じ土俵で勝負したいと強く思ったという。
「さっそく、蔵に帰って杜氏や蔵人に自分たちの酒と、世の中で評価されている酒を飲み比べてもらいました。すると、そこにいた全員、後者の方が美味いと言ったのですが、豊島屋でもこういう酒を造ろうという呼びかけへの賛同は、残念ながらその時には得られませんでした」
田中さんは宮城県石巻市に向かう。訪ねたのは「平孝酒造」の平井孝宏さん。銘酒「日高見」を醸す蔵の蔵元で、田中さんとは旧知の仲だった。現状を打破して勝負に出たいと訴える田中さんに対する平井さんのアドバイスは、「酒を造る前から、販売店に買ってもらう確約を取ってしまえばいい」というものだった。
田中さんは、明け方まで平井さんと話し合ったその足で東京の有名酒屋に飛び込んだ。石巻から直行したためスーツは用意していない、自社の商品さえも持ち合わせていない、持っていたのは情熱だけだ。
「東京から全国に発信できる酒を造る。春になったらサンプルを持って来るので、口に合ったら取引してほしい」
幸運にも在店していた先方の社長は、突然現れた手ぶらの田中さんの突然の申し出に困惑を隠せない様子だったが、そこに平井さんからアシストの電話が入ることで話が進み、「その〝泥船〟に乗ろうじゃないか」と、田中さんの熱意を汲んでくれたのだった。
知識ゼロのまま、27 歳で家業を継いだ田中さん。あふれる情熱とアイデアで豊島屋酒造を変えた。
先入観を退け、
未来を拓いた「屋守」
約束してしまったからには造るしかない。蔵人たちと試行錯誤の末、翌春出来た酒を持ち込むと、先の社長は「粗削りだが筋が良い」と評価してくれ、見事取引が開始されることとなった。田中さんの情熱から生まれたこの酒は「屋守(おくのかみ)」と名付けられた。今から20年前のことだ。
「私たちの蔵はこれまで『金婚』ブランドが支えてきました。そこで新しい酒は、次の時代の豊島屋酒造を守ってゆくブランドにしたいと考えました。お取引させていただく皆さまの繁栄にも貢献し、屋号を守るという想いを込めて『屋守』です」
もちろん、「屋守」が初めから爆発的に人気と認知を得られたわけではない。
「やっぱりどこに行っても〝東京の酒〟というだけで敬遠されていました。そこで産地を出さずに、まずは試飲してもらう手法に変えたところ、少しずつ受け入れられるようになったのです」
やがて、『屋守』の味に惚れた飲食店オーナーやファンが蔵を訪れるようになる。
「蔵人の意識も変わりました。自分たちの仕事がどこでどのように評価されているのかが見えて来たことで、行動が能動的になりました。今は常に自分たちが何をすべきかを自ら考えて行動しています。結果的には金婚の酒質向上にも繋がりました」
今、田中さんは東京の酒蔵で良かったと言う。
「経済の中心部から電車で30分ほどの場所に、手作り感、アナログ満載の会社があるギャップが一つの強みなのです。和食が世界無形文化遺産になり、日本のカルチャーが世界の関心事として捉えられるようになった昨今でも、一般の方には、酒蔵はまだ敷居が高い。そこで、私たちはこの立地を生か
してイベントや企画を打ち出すことで多くのお客さまに足を運んでもらえるようになりました。世界に発信するにしても、『東京』の名を冠することができるのは強いです。もちろん20年で豊島屋の酒の味が認知されたからですが(笑)」。
わずか6石からスタートした「屋守」の生産量は現在330石にまでなった。
禍を転じて蔵の力に……
歩みを止めない日々
「蔵人はお酒を醸し、人と人の縁を醸す」をモットーとする豊島屋酒造は、年間で実に30ものイベントを実施し、中でも毎年秋に開催される豊島屋フェスタは1日の来場者が1500名を超える大イベント。家族連れも多く、訪れたすべての人が期待を超える感動に満面の笑顔を浮かべる。
しかし2020年、ほとんどの行事は新型コロナウイルスの影響で中止を余儀なくされた。商品出荷も前年比3割減(2020年10月現在)となっているそうだ。この逆境に豊島屋酒造はどのように立ち向かっているのか。
「まずECサイトを開設しました。私たちを日々支えて下さっている飲食店の皆さまに配慮しつつ、エンドユーザーにもご購入いただきやすいよう小瓶の商品を用意したところ、これが大ヒットしました。また、蔵内の販売所を4月から無休にしたため、蔵まで買いに来てくださるお客さまも増えました。これも一人一人のお客さまに蔵の想いを伝えるよい機会となりました。SNSやYouTubeでの最新情報配信も徐々に周知されてきています。いま置かれた環境で打てる限りの手を打ち続けていることが、いつか通常の経済活
動に戻った際に生きてくると考えています」
商品がずらりとならんだギャラリー兼販売所。
自分たちが提供できる価値を、自分たちの言葉で届けることを大切にしたい――。そんな田中さんが描く日本酒業界、豊島屋の未来はどのようなものだろう。
「かつて東京の酒=美味しくないという刷り込みに私たちは苦労しましたが、味覚は、情報や先入観に大きく影響されます。ですから、どのように情報を伝えるかが大事です。豊島屋酒造ではお金をかけた宣伝での伝え方ではなく、ファンの方々皆さんの生の声で、ご自身の想いを、口コミやSNSで伝えてくれるのが理想です。蔵人みんなで、ファンの方々がさらにファンになってくれるような蔵にしていきたいと思います。水は流れが止まれば腐ってしまいます。私たちは決して歩みを止めることはありません」
コロナ禍で苦しい状況には立たされたものの、自分たちのあるべき姿を見つめ直して新たな一歩を踏み出した豊島屋酒造が、今後どのような進化を遂げてゆくのか追いかけ続けたい。
蔵の外観。地下150 メートルからポンプでくみ上げた安定した水温の地下水
を仕込み水として使用している。
酒を求めてタヌキも森からやって来たようだ。
販売所限定の日本酒
「MELLOW(BLUE)」
「NEON」
「NEW RAINBOW」。
「屋守」は特約店のみで販売。「大切にしてくれる販売店に利益を還元したい」と蔵の販売所でも売っていない。
国産もち米のみでつくる「天上みりん」。
もろみを混ぜる「かい入れ」。
蒸米の工程。
豊島屋酒造醸造部の皆さん。
豊島屋酒造株式会社
(Toshimaya Shuzou Co.,Ltd)
創 業 :1935(昭和10)年
代 表 者 :代表取締役 田中忠行氏
住 所 :〒189-0003 東京都東村山市久米川町3-14-10
T E L :042-391-0601
F A X :042-391-1983
取扱商品:金婚、屋守、天上みりん etc…
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