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【翻訳のヒント】「で」の使い方に敏感になろう

こんにちは。レビューアーの佐藤です。以前に「原文の情報を無意識にカットしていないか?」という注意喚起の記事を書きました。これは翻訳者なら誰しもはまる落とし穴であり、非常に改善の難しい問題です(もしまだお読みでない場合は、ぜひそちらを先にお読みください)。前の記事では人称代名詞まわりの表現に注目しましたが、今回は別の角度から、この問題に迫ってみたいと思います。

海でひとりでバナナボートで遊ぶ

さて、この小見出しを見て何か気づいた点はないでしょうか?日本語話者ならば、この一文を見ても「友達が少ない人なのかな?」と感じるくらいで、文意を理解するのに苦労しないでしょう。しかし、日本語学習者にとっては少し話が違います。きっと、「なぜこんな短い文に『で』が3回も出てくるんだ!」と感じるはずです。そして、「『海で』は<場所>、『ひとりで』は<状態>、『バナナボートで』は<手段>……」のような分析をして、ようやく文意にたどりつきます。つまり、何が言いたいかというと、日本語の格助詞「で」には多様な意味があるということです。

国語辞典を引いてみると、次のように説明されています。


Ⅰ〔格助〕(格助詞「にて」の変化)中古末に現れ、現代に至る。
1 場所・時間を示す。
2 手段・方法・材料等を示す。
3 理由・根拠を示す。「雪で電車が遅れる」
4 事情・状態などを示す。「小声で話す」「ひとりで行く」「はだしで歩く」
5 主格助詞によらないで、動作・状態の主体を示す。

国語大辞典(新装版)小学館 1988

日本語を自然に話す人は、これらの「で」を無意識に使い分けています。あまりにも自然であるため、自分が書いた(あるいは口にした)「で」がどのような意味なのかを深く考えたことがない人も大勢いるでしょう。実は、私もそうでした。しかし、翻訳レビューの仕事をするようになってから、訳文中の「で」の使い方が気になり始めました。

その「で」は<場所>なのか<手段>なのか?

最初に違和感を覚えたのは、確か、こんな感じの訳文を見たときでした。

ファイルを画面でコピーできます。

日本語としてまったく意味が通じないわけではないけれど、何かモヤモヤするぞ?と感じました。そこで原文と見比べたら、こう書かれていました。

You can copy the file in the pane.

正直なところ、原文はこんなにわかりやすく書かれているじゃないか……と脱力しました。原文にあるのに訳文で省かれてしまっている情報は、"you"と2つの"the"、そして"in"です。"you"と"the"を訳出しない判断は理解できますが、"in"についてはどうでしょうか?翻訳者は"in the pane"を「画面で」と訳すことで責任を果たしたつもりかもしれませんが、それでは済まないのが格助詞「で」の難しいところです。

原文を一切忘れて、「ファイルを画面でコピーできます。」という訳文だけを見た場合、「画面(という場所)で」なのか、「画面(という手段)で」なのか、一瞬迷ってしまう人は多いと思います。もちろん、よくよく考えれば前者であることは明らかなので、この訳文が誤訳であるとは言い切れません。ただ、読者にそうした迷いを抱かせる可能性を極力避けるのが、良い翻訳というものです。

では、この訳文をどう直せばいいのでしょうか?答えは簡単です。<場所>を明示する1字を加えて、次のようにします。

ファイルを画面でコピーできます。

たった1字を加えただけで、モヤモヤ感がだいぶすっきりしました。

これはごく単純な例なので、そこまで目くじらを立てなくてもいいのでは?と感じるかもしれません。しかし、このような「で」の多義性を理解したうえで意識して使わないと、誤訳になってしまう場合もあります。

軽い気持ちで使った「で」が誤訳になる例

さっそく例を見てみましょう。プログラミングの解説書からの抜粋です。

【原文】
Calculate the value in the function A.
【訳例1】
その値を関数Aで計算します。
【訳例2】
その値を関数A内で計算します。

"in"を「で」と訳す癖がついている翻訳者は、何気なく【訳例1】のような訳文を書きがちです。「で」と書けば<場所>の意味が十分に伝わると思ってしまうのですが、そう考えるのは、自分がすでに"in the function A"という原文を見ているからです。実際には、【訳例1】だけを見た人の多くは、「関数Aという<手段>で」と理解します(つまり、"in"というより"with"の意味)。そのため、翻訳者がどんなつもりで翻訳したとしても、結果的には誤訳になります。「関数Aの中に計算処理をコーディングする」という原文の意味を正しく訳出するには、【訳例2】のように訳すのが適切です。

もう1つ例を見てみましょう。あるシミュレーションツールの機能説明からの抜粋です。解析実行時に、モデル中のサポート対象外のブロックがどのように処理されるかについて説明しています。

【原文】
Just before analysis, a copy of the model is created and the unsupported blocks are replaced in the copy.
【訳例1】
解析の直前にモデルのコピーが作成され、サポート対象外のブロックはコピーで置換されます。
【訳例2】
解析の直前にモデルのコピーが作成され、そのコピー内にあるサポート対象外のブロックが置換されます。

この【訳例1】も、"in"を単純に「で」と訳した結果、原文の意味が読者に正確に伝わらなくなった訳文です。原文を見れば「コピー内で(置換される)」の意味であることは一目瞭然ですが、【訳例1】だけを見た読者の多くは、「(何かの)コピーによって(置換される)」の意味と解釈するでしょう。したがって、結果的には誤訳になります。こうした行き違いを防ぐには、【訳例2】のように、"in"が<場所>を示していることを明らかにする必要があります。

「結果的に誤訳」を防ぐために

今回挙げた例はいずれも、翻訳者は原文の意味を正しく理解していたのに、"in"を何気なく「で」と訳したせいで誤訳(と言われても仕方ない訳)になってしまったケースです。「で」は非常に使いでのある便利な格助詞ですが、自分の意図とは違った意味に受け取られる危険性があるので、使い方に注意が必要です。特に、<場所>を表す"in"を訳すときは、ただの「で」よりも「内で」とした方が誤解を避けやすいように思います。

ちなみに、<手段>を表す"with"を「で」と訳す場合についても同様のことが言えます。自分は<手段>のつもりで「で」と訳したのに、読者には<場所>の意味で受け取られる可能性があるということです。翻訳するときは、「読者はこういう意味だと理解してくれるはず」と思いこまずに、フラットな視点から、この「で」の使い方で意図が伝わるかを見直すようにしましょう。

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