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建築家の住宅論を読む<2> ~山本理顕『住居論』~

戦後の日本の住宅事情を振り返ってみると、庭付き一戸建てが「住宅すごろくの"上がり"」だった時代、核家族ファミリーが3LDKのマンションに憧れた時代、バブルによる値上がりで住宅が高嶺の花となった時代、コロナ禍を契機に職住の概念があいまいになった現在など、時代の変遷につれて、住宅を取り巻く環境は大きく変化し、そのたびに人々の住宅観も大きく変わってきました。

そんななか、家族や社会とのかかわりで住宅をその根本に立ち返って、さまざまに思考してきたのが建築家でした。その捉え方は、往々にして一般に流布している住宅のイメージとは大きく異なる個性的でユニークなものでした。

人口減少社会の到来、高齢化の進展、家余りと空き家問題、所有にこだわらないシェアという価値観の登場など、今、住宅を取り巻く社会と環境は再び大きく変化しています。

そこで、これからの住宅に思いを馳せながら、改めて 建築家たちが深く思考を巡らせたユニークな住宅論をもう一度読んでみたいと思います。

住宅とは空間された規範だ。

 
「空間化された規範」。『住居論』(住まいの図書出版局,1993年)において、山本理顕は、住宅をそう呼んでいます。
 
山本理顕は住宅を徹底的に空間の性格として捉え、隠された本質に迫ります。
 
玄関があり、リビングがあり、キッチンとお風呂があり、いくつかの個室が集まった空間を私たちは普段、住宅と呼び、こうした部屋や機能の組み合わせは、そこに住む家族やその生活の実態を反映させた結果であると思って疑わないのではないでしょうか。
 
これに対して山本理顕は、家族や生活が大きく変わっているなかで、なぜ住宅は変わらないか、という素朴な疑問を呈します。

なぜ住宅はかわらないのか?

 
なぜ住宅は変わらないのか。それは住宅というものが、もともと家族や生活の実態や現実を反映したものではなく、人々の抱いている家族像や生活像といった期待や願望や理想、いってみれば現実ではないヴァーチャルなものを反映してできあがっているものだからである、と喝破します。
 
<専業主婦>や<核家族>や<家族団らん>という現実がとっくに変わっているのに、今もってnLDKと呼ばれる間取りが主流であることに変わりがないのは、それに代わる確たる家族像や生活像が未だ見えていないから、ということになります。
 
冒頭の「空間化された規範」という言葉はそういう意味です。

住宅は「家族のための私的な空間」ではない


「規範」は外部からやってきます。家族像や生活像、理想や願望は、社会や集団の習慣や制度や秩序など外部との関係性のなかで生まれてくるものです。
 
「住居は家族という共同体とその外側の社会(その家族を含む上位の共同体)との関係を調停する空間装置なのである」と私たちが当たり前に思っている、住宅は家族のための私的な空間であるという常識も覆されます。
 
事実、日本においても、近代以前までの住宅は、家父長のための座敷や客間といった封建共同体の秩序を反映した空間を内包していましたし、また、町屋などでは<店>や<見世>と呼ばれる労働や生産や商取引を通じて市場という外部につながった空間を持っていました。

熊本県営保田窪第一団地


現在、私たちの多くは、住宅=私的(プライベート)、外部=公的(パブリック)という図式を当たり前のこととして暮らしています。近代以降、当たり前のように考えられてきたこうした住宅のあり方(規範)も決して当たり前ではないということになります。
 
単身世帯の増加、格差の拡大、新しい働き方、シェアという価値観、社会の急速な高齢化など、今の日本が直面する問題はすべて、住宅に直結する問題であり、さらには住宅を私的な空間として囲い込むだけではもはや解決できない問題と言えます。
 
住宅は本来、私的な空間だけではなく、公的な空間でもあった。山本理顕の指摘は、これからますます重さを増してくるに違いありません。
 

山本理顕(1945-)
日本大学理工学部、東京芸術大学大学院で建築を学ぶ。横浜国立大学大学院教授、日本大学大学院特任教授などを歴任。研究生として在籍した東京大学原広司研究室での集落調査の知見に基づいた独自の領域論や住居とはなにかを問題提起する作品を発表。近年は地域コミュニティ構想『地域社会圏主義』などを提起している。代表作に《岡山の住宅》、《熊本県営保田窪第一団地》など。

初出:houzz site

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