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イヴの孤独、フランソワーズの孤独~前編

「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」Yves Saint Laurent, Across the style(2023.9.20~12.17)と題して、没後日本初の大回顧展が国立新美術館で開催されています。

 この展示はまだ未鑑賞ですが、記念してblog過去記事を以下note にアップします。


狂気の愛、アリババの巣窟、そして美の墓場


 イヴ・サンローランを描いたドキュメンタリー映画『イヴ・サンローラン』(ピエール・トレトン 2010)を観てきました。
 
 映画はサンローランによる2002年の引退宣言の映像から始まり、2008年の葬儀の模様を挟み、バビロンヌ通りのアパルトマンやノルマンディーの別荘におかれていた膨大なコレクションがクリスティーズに手によってオークションにかけられゆくプロセスを追った映像とサンローランの50年以上公私に渡るパートナーだったピエール・ベルジュによる回想とによって進行してゆく。
 
 絵画が壁からが剥がされ、リスト化され、箱に入れられ、次々と運び出されてゆく。インテリアとアートが一体となって濃密な空気を漂わせていたアパルトマンの空間が徐々に空虚さによって侵食されてゆく。
 
 膨大なアートは1つ1つ頑丈なクレート(木箱)に梱包され、ジェット機でニューヨークやロンドンの下見会に運ばれてゆく。
 
 プライベートなモノがいつの間にかパブリックな「商品」へと転換し、世界というマーケットに放り込まれる瞬間。
 
 淡々と描かれる競売のプロセスとアートに埋め尽くされたアパルトマンの様子や悲しみを内に秘めたピエール・ベルジュの回想シーンを対比させた演出は、アートを巡るマネーパワーの現実を浮かび上がらせてなかなか見事だ。
 
 「私が死んでもイヴはコレクションを売ったりはしなかったでしょう」というピエール・ベルジュの言葉が印象に残る。ピエール・ベルジュにとっては、どんなに見事なコレクションがあったも(イヴがいなければ)、ということか。深い喪失感が漂っている。「美の墓場」、オークションをピエール・ベルジュはこう表現していた。
 
 映画の原題は ”L’amour Fou” 。直訳すると「狂おしい愛」、「狂気の愛」というような意味だ。
 
 なるほど。
 
 2人の関係もそうだが、この膨大なコレクションを欲望するのも狂気に近いような気がする。ニューヨーク・タイムズは、バビロンヌ通りのアパルトマンを「アリババの巣窟」と呼んだそうだ。
 
 コレクションの売却額は総額で430億円。個人のコレクションとしては過去最高額だった。すべてがエイズ対策の団体に寄付されたという。
 
 それにつけても、ギリシャ・ローマ時代の古美術からマティス、ピカソ、セザンヌ、モネ、ブランクーシ、デュシャンなどの近・現代美術、そしてインド・中国などのオリエンタルな古美術、さらにはアイリーン・グレイの家具までなど、この膨大なアートをコレクションする欲望とそれらを空間の一部となすインテリア空間は、まさに西洋的メンタリティそのものだ。西洋に置ける室内の壁は絵や鏡などいわゆるアートを飾ることを前提にしているということが良くわかる。本質的に日本の伝統的な室内に壁は無い。彼我の差に改めて気づかされ興味深い。

1962年、初のコレクション。「モードの帝王」誕生の瞬間 


 イヴ・サンローランは1930年、当時植民地だったアルジェに生まれる。19歳でクリスチャン・ディオールに見出され、ディオールの死をきっかけに21歳で同メゾンのチーフデザイナーに指名される。当時のクリスチャン・ディオールの「私は彼に認められたい」という言葉ほど、サンローランの特別な才能を象徴する言葉はないだろう。念のためこの「私」とはあのクリスチャン・ディオールのことだ。
 
 “DEBUT IVES SAINT LAURANT 1962” と題された写真集がある。サンローランがディオールを辞めピエール・ベルジュとIVES SAINT LAURANTを設立し、最初のオートクチュールのコレクションを発表する時の準備からの模様を捕らえた写真集である。
 
 ライフの写真家ピール・ブーラ Pierre Boulat の写真にル・モンドのファッションジャーナリスト ローランス・ベナイム Laurence Benaim が文章を添えている。映画の語り手ピエール・ベルジュ本人が写真のキャプションを書いている。
 
 映画にもこの本の中からかなりの枚数の写真が登場していた。
 

"That day, he wasn't happy"
"We cross out every passing day"
"It's a good day"


 朝日のような若々しさ、少年の無垢なシャイネス、折れてしまいそうな繊細さ、いかにも才気ばしった表情、溢れ出るアイディア、絶えず襲ってくるプレッシャー、熟考する真剣な眼差し、大胆で独創的なデザイン、布地を這う職人の手つき、拭い切れない不安、成功に後の溢れ出る歓喜etc. 当時のサンローランと彼が置かれていた世界を垣間見せてくれる。

"And yet he's protected by his master, Christian Dior"
"A single eye to see everything"

  写真に付されたピエール・ベルジュの手になる短いキャプションがなかなかいい。
 
 この最初のコレクションは大成功し、サンローランによるオートクチュールメゾンがスタートする。それ以降、革新的で高度に洗練されたコレクションを立て続けに発表し、サンローランは「モードの帝王」と呼ばれるようになった。
 

「イヴは火を掲げる人でした」


 「イヴは火を掲げる人でした。最初に火を掲げる者がいなかったら我々は火を使うことも見ることもできないのです」
 
 映画にはかつてのサンローランのミューズだったベティ・カトルーとルル・ドゥ・ラ・ファレーズなども登場しサンローランを回想している。
 
 写真は1966年にスタートしたプレタポルテ サンローラン・リブゴーシュの前で撮られたサファリスーツに身を包んだ3人。今見ても色あせないカッコよさ。

 
 タキシード、パンツスーツ、サファリスーツ、トレンチコート、ピーコートなど、いまや働く女性にとって当たり前のこうしたアイテムのすべてはサンローランが創り出したものだ。
 
 「シャネルは女性に自由を与えましたが、イヴは女性に権力を与えました。彼は女性の肩に男性の服を置くことによって女性に権力を与えたのです。ココ・シャネルは彼を唯一の後継者とみなしていました」
 

「名声はどんなに輝かしくてもそれは葬列なのです」


 サンローラン最後のコレクションの様子が登場する。フィナーレでピエール・ベルジュに肩を押されてやっとのことでランウエイに出てきて、どこかぎこちなく無気力な様子で会釈する濁った表情のサンローラン。
 
 サンローランは既に70年代からアルコールとコカインを常用しており、生来のうつ気質と相まってまさに薬に頼りながらの創作だったらしい。引退してからの数年はマラケシュの別荘にこもり、薬漬けの生活だった。
 
 「イヴがリラックスできたのはコレクションが終わった夜だけでした。翌日からは再び次のコレクションに向けた重圧と孤独が襲ってきたのです」
 
 三島由紀夫は『肉体の学校』(1963年)のなかで同年に初来日したサンローランの帝国ホテルでのショーの場面を登場させ、ショーの直前に倒れてしまったサンローランを「なにしろ針金みたいな神経の人物だから」と表現している。
 
 それほどまでにして前に進まざるを得ないということはどういうことか。才能なのかプライドなのかビジネスなのか。
 
 サンローランにとってコレクションとは、打ち込めば打ち込むほどいつの間にか自己自身がその虜になって抜けられなくなってしまうような世界だったのではないか。
 
 嫌だとからいって疲れたからといって離れられず、むしろそれがない生きていけない世界。憎みながらも恐れながらもそれを求めずにはいられない世界。
 
 そうした魔界に住むものにとって、一時でも逃避の夢をみせてくれるのがアルコールでありコカインへの耽溺だったのだろう。

 狂気のコレクションもたぶんそうなのだ。
 
 若きサンローランがあるインタヴューに答えて言う、「責任を逃れて若さを味わってみたかった」と。
 
 「名声はどんなに輝かしくてもそれは葬列なのです」
 
 名声とはそうした魔界に住む者が失った自己と自由と若さへの代償のことだったのだ。

                                       to be continued.
 

*「 」内のピエール・ベルジュの引用は発言の主旨。出典は本映画の他にインタヴューや著書『サンローランへの手紙』(中央公論社)。

*掲載写真は最後の1枚以外は以下の書籍から。"debut YVES SAINT LAURENT 1962", photographs by Pierre Boulat, text by Laurece Benaim, Harry N. Abrams, Inc., Publishers。


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