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『いつも何度でも』歌詞考察

今回の歌詞考察は、『いつも何度でも』。作詞は覚和歌子さん、作曲は木村弓さんです。

 この歌は、歌詞だけを見ても、曲だけを聞いても、生死をテーマにしているのだなと伝わってくる歌ですね。

 ただ、テーマが壮大な分、なんとなくしかわかりにくいかもしれません。なんとなくでも心まで染み渡ってくる素晴らしい歌ですが、せっかく意味が少しでもわかるなら、知りたくありませんか? チャンスは今だけですよ! ……嘘です。『いつも何度でも』知る機会はあります……。

 ということで、勝手に始めていきますね。

 まず、テーマが生死といっても、無味乾燥な諸行無常という感じではないですね。永遠不滅の魂のような何かがあるように書かれています。

 私の場合、魂というよりは、心が永遠不滅であるように感じています。心といっても、奥底にある、本心というか。今回はわかりやすいと思うので本心ってことにします。

 一番と二番の冒頭で『呼んでいる』というのはまさしく本心ですね。『いつも心踊る 夢を見たい』『いつも何度でも 夢を描こう』という本心。

 私は、いずれは生と死が溶け合って一つになるのではないかと考えています。作詞された方もそう考えていたなら、本心とはどちらかといえば死に近いのにもかかわらず、夢を見て夢を描くという生きていないとできないことを願っていることも納得できます。

 生は死を征服しようとしていますが、死は生と一つになりたがっているのです。きっと一つになることは悲劇ではないのでしょう。生きている時も本心ではそう願っているのですから。『輝くもの』ですし。

 ちなみに、『さよならのとき』に『ゼロになるからだが 耳をすませ』、『閉じていく思い出の そのなかにいつも 忘れたくない ささやきを聞く』のは、人が死ぬ時は本心だけが残るので、耳を澄ましてささやきを聞くことができるわけです。また、生まれる時、『はじまりの朝』が『静かな窓』なのは、永遠を司る本心が、有限性の塊である生の状態になるからでしょう。

 そして、この歌はまた、『果てしなく 道はつづいて見えるけれど』や『海の彼方には もう探さない』のように、永遠性という、限りなく遠くて届かないものを意識しつつも、『この両手は 光を抱ける』や『輝くものは いつもここに わたしのなかに 見つけられたから』という、手が届いているように表現されていますね。

 永遠先にあるなら届かないけれど、永遠じゃないなら不滅じゃなく、いつか完全な無が訪れるのでは?

 この二つのジレンマを乗り越えられる可能性が、人間には秘められていると思います。なぜなら、まだ分かれているとはいえ、生と死、体と心が一つの命に宿っているからです。人間とは、有限でもあり無限でもある生き物なのです。つまり、そもそもジレンマやパラドックスではないのです。ホモ・サピエンスというより、ホモ・チャンスなんだなこれが。

 もう一つ、この歌の特徴として、『悲しみ』や『あやまち』が何度もでてきますよね。そこに寄り添うのがこの歌に感動するポイントの一つでしょう。

『ただ青い空の 青さを知る』『こなごなに砕かれた 鏡の上にも 新しい景色が 映される』。己の無力さ、この世界の残酷さを目の当たりにし、ただ呆然と自分を空っぽにするしかない。空っぽでしかいられない。それでも、どれだけ現実に打ちのめされようとも、決して終わりではない、新しい世界が開かれる。割れた鏡に自分がいっぱい映っていたのを見たことありませんか? どれだけ小さくなっても、鏡というものには世界の全てが映し出されることに重ね合わせたのでしょう。

 以上、ほとんど好きなように喋っただけでしたが、お役に立てたでしょうか?

 全然?

 ちょっと『青い空』眺めてきます……。

 ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました……。

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