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的を狙わずに自分自身を狙え!

以前にご紹介しました『しろうるりをくらうるり 芋頭道の人』に続き、約20年前の古い作品です。ただ、テーマは普遍でなおかつ不変ですので、そのまま記載します。

2004年3月1日付『Bookish Cafe』より


大正15年春、仙台・東二番丁ひがしにばんちょう五橋通りいつつばしどおりのほど近くにあった弓道場に、碧眼へきがんの男とその妻が入門を許された。

その男とは、当時東北帝国大学に講師として招かれていたドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルその人であった。

ヘリゲルは夫人とともに来日。

夫人は武田朴陽たけだぼくよう氏のもとで生け花を習うなどしているが、自分はとりわけ禅宗の影響が大きいと思われる「弓」をとおして日本文化の神髄に触れたい、というのが入門の動機であった。

一方、道場主は、「弓聖」「弓豪」として当時全国にその名を知られた弓道家・阿波研造あわけんぞうであった。

『弓と禅』のカバーとヘリゲル晩年のポートレートが載る扉

入門を許される

阿波は、当初通訳を介しての、この一外国人の入門を一言の下にはねつけた。

「過去に数人外国人を教えた経験があるが、みな弓を遊戯でなければスポーツとしてとらえており、弓道精神を理解しようとしない」

というのがその理由だった。

しかし、このたびの男の要請はもっと崇高な精神に根差すものである。
自分は外国人だからといって体よくあしらうことはしたくない。
そのためにも報酬は一切いただかない旨を条件に、阿波はついにこの男の入門を許すのであった。

稽古初日、阿波は、ヘリゲルを巻き藁まきわらに向かわせ、足の構え、弓の持ち方を教えた後、呼吸を整えること、気を丹田に集めるよう指示した。
数回巻き藁を射ることで稽古は終わったが、もちろん、外国人の姿勢ははなはだ不格好なものであったという。

そして、それから毎週一回、昭和4年に仙台を離れるまでの足掛け5年間、ヘリゲルは夫人とともに、阿波道場に通うのである。


その矢を誰が射るのですか?


「気を丹田へ?」

あのヘーゲルやジョーペンハウエルやニーチェを生んだドイツ人のことである。
その論理的で合理主義的な頭脳に、東洋的な形而上学的概念が、にわかに受け入れられようはずもない。

ヘリゲル教授は四苦八苦する。
そして、一年経ってようやく呼吸法も型も何とか身についた。

しかし、矢を放つという一事が出来ない。
放つたびに衝撃が走る。
師範の阿波には全くそれがない。

師は言う。

「無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを学ばねばならない」

「しかし、それを待っているといつまで経っても矢は放たれません」

と、哲学者は師に詰め寄る。

「あなたは、全然なにごとをも、待っていても考えても感じても欲してもいけないのである。術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである」

「(しかし)無になってしまわなければならないと言われるが、それでは誰が射るのですか?」

こんな問答が繰り返される。


今も昔も欧米では「禅」に人気がある

中てようとしても狙ってもいけない

師は根気よくこの”理屈屋”の弟子(門下生)の面倒を見る。
そうして3年目。
ヘリゲルはますます出口のない迷路に分け入っていた。
そこで、今度は小手先でこの無心のうちの「離れ」を解決しようと試みる。見た目、自分でも満足いく手法であった。

しかし、師の目にはごまかしようがなかった。
阿波師範は、黙ってヘリゲルから弓を取り上げた。

そのうちさらに1年に及ぶ練習を積み、ようやく師から完全に認められる発射が出来るようになった。

そこで、今度はいよいよ最後の課題、すなわち的を射る稽古に入る。

師は言う。

「的にてようとしても、狙ってもならない。的を狙わずに自分自身を狙え」

「的を狙わずに中てるということは、理解も習得も出来ない」

そうして、ついにある夜、ヘリゲルはそれまでの自らの考えを叩きのめされるようなある驚愕的な場面に遭遇するのである。

暗中、ど真ん中に中てた甲矢こうしを割り乙矢おつし

苦悶する哲学者は、師の家へ招かれた。

夜9時。

来訪者を顧みることなく終始無言の阿波師範。
すーっと立ち上がるや、夜目にもかすかに見えるか見えないかの蚊取り線香を、的の前の砂に立てた。

暗中、第一矢が師範の弓から放たれた。
ハッシとして的に中ったことが分かった。

続く第二矢も放たれ、音を立てた。

師は、弟子に矢をあらためるよう促した。

的に中てようと狙ってはならない


哲学者がそこに見たものは、
見事に的のど真ん中に命中していた矢と、
その矢のはずに中って、それを二つに裂いているもう一本の矢だった。

阿波はその時に弟子に

「暗闇で矢を真ん中に射当てることは、日ごろここで矢を射っているせいだと思われるでしょうが、一矢に重ねて二矢を射ることはどう解釈されるだろうか?」

と問うたという。

以来、このドイツ人哲学者・ヘリゲル教授の弓の進歩は目覚ましいものがあった。

稽古を開始してから5年経ったある日、ヘリゲルとその妻は、ついに阿波師範から免許状(五段)を取得することが出来た。
晴れて先生の資格を手にしたのである。


日本を離れる時に、師範はその弟子に、自らの愛用の弓に加え、秘蔵の名刀一振りを贈った。
師弟はおおいに別れを惜しんだ。

帰国後のヘリゲルは、戦後の混乱の中でもまれながら、晩年は山岳地のガルミッシュ・バルテンキルヒェンに隠棲した。
そして71歳で没するまで、師・阿波研造に向けての思いは潰えなかったという。

ガルミッシュ・バルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen
=リヒャルト・シュトラウスが晩年過ごした町、ミヒャエル・エンデの生誕地でもある

後記・及び参考文献
本稿は『日本の弓術』(オイゲン・ヘリゲル著・柴田治三郎訳=岩波文庫)『弓と禅』(同・稲村栄次郎、上田武訳=福村出版1981年)を参考に構成した。
ここでご紹介したオイゲン・ヘリゲルおよび阿波研造の両氏は仙台にゆかりの人物である。したがって関係機関等に照会すれば、著書にない新事実やエピソードなども明らかになった可能性もある。
しかし、時間的にその余裕がなかったためにアウトラインをなぞったにとどまった。
筆者(私)が阿波研造の名を初めて耳にしたのは、もう30年近くもさかのぼった学生時代のことである。もちろん、ここでご紹介したヘリゲルの名著から知ったのであるが、爾来「達人・道の人」として憧憬の的であった人物である。
(中略)
何よりも興味深いのは、若いころの弓と、晩年の弓の違いである。
ヘリゲルが入門を許されたころの阿波師範は、すでに人為を去ったある種悟りの境地にあったことがうかがわれる。
しかし、それまでの阿波の弓は、
「先生の稽古は真摯勇猛、離れの瞬間の先生の雄叫びは獅子の咆哮に似て凄まじく、鉄壁を通せの号令、今なお耳底に響く」
という門人の回顧にあるように、勇猛果敢な「豪弓」だったという。

阿波研造は、昭和14年3月1日、60歳でこの世を去った。

                ※

蛇足ながら、ぜひ付記しておきたいのは、中島敦の「名人伝」である。
弓の名人は修行の果てに、弓そのものも、自分をも忘却してしまうという老荘的な哲理にもとづいた壮絶なお話しである。

ここまで、抜粋の記事内容です=仙台市にて

みなさまへ
いわゆる、古典であり、名著でもある『弓と禅』『日本の弓術』のご紹介でした。もし、まだお読みになられていないようでしたら岡倉天心の『茶の本』同様お勧めしたい本(古典)です。
何分古い原稿ですのでやや硬いところが気になりますが、当時も今も自分自身があまり変わってないなあ、進歩してないなあ、というのが正直な感想です。
しかし、自分が変わらないのは、そこにある考えが「不変」だからではないでしょうか?
阿波研造の名を知ったのが当時でいえば30年前だから、50年もこの方は私の中で生きていたのか?
ということで、やはり「不変」「不易ふえき」「恒常」にしがみついていればもしかしたら年を取らないのかもしれません(進歩がない?)。

あらためてヘリゲルの修行の軌跡を辿ってみて驚くのは、実際に矢を射る修行を許されたのは滞在5年のうちのラスト4年目にしてではないか?
昔、ドイツ人は一本の直線をひくのに、定規で引いたそれよりも自らの線に曲がりがないと思い込んでいるものだ、という話を聞いたことがある。
ヘリゲルは、むしろ頑迷なくらいに阿波に食らいついていった。
徹底的にその硬い精神性で向かっていったからこそ、かえって「気づき」があったのかもしれない。
少なくとも、教壇の上のみの「学問」ではなく、「実践」を取り入れたヘリゲルに喝采を贈りたいではないか?



東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。