見出し画像

一切は過去のものである【地上とは思い出ならずや】

「地上とは思いでならずや」とは、稲垣足穂の謂いだが、なるほど私たちの見ている地上世界、この世は、確かに思い出の世界、過去の世界であって、決して今躍動する、生きている世界ではない。
なぜなら、そこは時空の支配する世界だからである。


私たちが普段使う「時間」「空間」という言葉が物語るように、それはあくまでも「間」であり、時空のベクトルをあらわすにとどまり、決して時空そのものではない。
どうあがこうが、それはいつもAからBへの限られた動きを表しており、そう認識するや否や、BはすでにCに変わっている。


それというのも、そこには常にそれを見ているもの、すなわち「我(観測者)」がいるからである。
好むと好まざるとにかかわらず、意識しようとしまいとにかかわらず、いつも我がいることもまた不思議ではないか?


ミンコフスキー空間=足穂も好んで言及していた


つまり、私たちが言うところの「宇宙」とは、「我」が見た狭い世界を謂い、それはすでに過去のものである。
そこに映るものは、宇宙全体ではなく、単なるその瞥見(グリンプス)であり、断片であって、また泡沫のようなものである。


まず、遠くを見るとはどういうことなのかを考えてみましょう。 ある天体が地球にいる私達に見えるということは、その天体が発した光が地球に届いたということです。光の速さは秒速約30万キロメートルととても速いのですが、多くの天体はとても遠くにありますので、光は何年もかかって私達のところまで届きます。たとえば、1万光年離れた天体を考えると、1万年前に天体を出た光が、1万年の間宇宙空間を飛び続けて、今やっと地球に届いたのです。つまり、今私達が見ている天体の姿は、その天体の1万年前の姿だというわけです。

大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 国立天文台 「宇宙の果てはどうなっているの?」より


さながら、宇宙とは「我」の写し鏡のようなものであり、我という生命体の消長に併せて動き、変化しているように見える。
「我」が不在であれば、宇宙は恐らく認識すらできないような別な様相を示すのだろう。


私たちは過去を見て、過去で考えている

物質は宇宙の産物であり、過去のもの

人類はこれまでに多くのことを発見し、多くのことが分かってきた。
しかし同時に、人類は未だ多くのことが未知であり、多くのことに答えを出していない。


時間は十分にあった。
それも5,6分とかいう単位ではない。
数千年、いや数万年にわたる時間である。
それでも解けない問題はいくつかある。


なかでも最大の問題の一つが、この時空・宇宙とは何かという命題である。
「何々説によれば」「何々教の経典では」という受け売りはもう結構。そんな伝言ゲームをしている時間はもはやない。
タイムリミットである。
人類はこの問題の前では手も足も出ないと白状しようではないか?
過去数千年かけても分からないものは、この先数千年かけても分からないだろう。


水が水素と酸素の化合物である・・から始まって物質・三次元世界のあらましが分かったと自認する科学者にしても、その物質世界を包含する全宇宙に対しては「畏敬の念を抱きます」とか「祈ることです」とか「瞑想によって明らかになることを期待します」などの低判断しか示し得ないものである。


物質世界のなにがしが分かったところで、それらの母体である宇宙については不明であるということは、つまり何にも分かっていないことに等しい。
木を見て森を見ずである。
森を見て大地や空を見ず、
大地や空を見て、ついには宇宙は見えないということだ。


私たちの住むこの地上という物質世界。
この世界は果たして物質から生じたのだろうか?
その組成が素粒子・量子といった極微の物質であったとしても、それではそれらはいったいどこから湧いてわいて来たのか?


上昇する一個の泡粒があることは、すでに大海の存在をほのめかしている。
大海が無ければ泡粒はない。
泡粒が先にあるという道理はないからだ。
その意味で泡粒とは、大海の産物であり、過去のものである。


同様に、物質は非物質から生じた、という論理が飛躍しすぎだとしても、少なくともそれは宇宙から生じたのだという事実には、何人も首を横に触れないはずである。
収容する函が無ければ、モノは存在できないからだ。
物質は宇宙の産物であり、過去のものである。


その泡の一粒を「宇宙」と呼んでいる。


考えることも未来のビジョンも過去を基にしている

宇宙の「宇」は空間の広がりを、「宙」は時間の流れを表す。

間のない「時」
間のない「空」

それは無限の時空を表すのだろう。
というよりも、時空こそは無限なのだろう。
そこにはAもBもすべて同時に存在している。
無論、過去も未来もである。


そこには一切を規定している「我(自己)」という軸が不在である。
あるいは、このエゴイスティックで偏狭な「我」ではなく、そこには果てしなく拡散する「我」が遍在しているのかもしれない。


さて、その「我」こそが曲者である。
なぜなら、そのものは四六時中、寝ても覚めても何ごとかを考えているからだ。
その考えるにあたっての素材は、記憶や経験や書物やらの知識による。
それらは一切すべて過去の物事である。


よく考えてみよう。
それら過去の物事が今、この現実世界に存在しているだろうか?
いや、それは今ではなく、私たちが見ている現実、すなわち過去に存在しているに留まる。
同様に、よく言う「未来について考える」とは何か?
「未来のビジョン?」
何をもって未来を描こうとしているのか?
それもやはり過去を基盤にしてはいまいか?
それら未来像は今、この現実世界に存在しているだろうか?


過去も未来も、いずれも夢想の世界である。
でなければ幻想・幻影であり、架空の世界ではないのか?
私たちは、しばしば「考える」と称して、その実まどろんでいる。
子供が描く他愛のないメルヘンチックな夢であれば微笑んでもいられよう。
しかし、我々は「今あるもの」を「未来にあるべきもの」にすり替えてしまう。
両者は拮抗し、葛藤する。
なぜなら「あるべきもの」とは、今のあり様、現状への不満・不足から成り立っているからだ。


今は昔(捉えられない「今」)

それでは、完全でそれこそが真実で、一切の夢幻のベールで被われていない世界はないものか?
それを私たちは、思い切って「今」という言葉で謂うが、その「今」こそが、すぐそこ、あるいはここにありそうでいて、絶対に捕まえることができない世界であることはだれしもが百も承知の事実である。
「今、〇〇である」などと普通に言ってはいるものの、実際は「昔は〇〇だった」と言っているのである。
「今」といった瞬間にそれは過去であるからだ。


なぜ、「今」が捕まえられないかといえば、我こそがその本体であり、それが動いた軌跡を云々しているからに他ならない。
捕獲者が、自分を探して取り押さえようとしているようなものだ。


私たちは、まずこの世、現実とは過去の世界であることを認識しなければならない。
それは、すでに終わっている世界である。
認識とは、終わりの認識である。


このことを別な言い方であらわしてみよう。

仮に「本体」というものがあったとして、不思議なことに私たちの五感ではそれを認識することができない。
それは、さながら尾を引いて滑空する彗星のようなものであり、彗星を本体としたときに、私たちが認識しているのは彗星そのものではなく、彗星自体の軌跡、そのガス様の尾ッポである。
(しかも、困ったことにそれを称して「彗星だ」と認識しているわけである)


尾をもって「彗星」とする


最大の愚行は神を創出したこと

人類最大の、そして痛恨のミスというものが「神」という絶対の概念を持ち出したことだったと思う。
それは当然人間<神(絶対者)という隷属の図式を生み出し、信者という暴力がはびこることになった。
ご存じのように今日の我々がそうであるように、みごとに人類は奴隷となり下がった。
現代人はみなイメージの信者だからである。


当然である。
絶対者が君臨すれば、それ以外の下々は卑屈なまでに過小評価され、時に動物同様の扱いを受け、ひどいときは平気で命を絶たれた。
偏執狂的な妄信者が自らの神を神聖とするとき、他者の奉ずる神は邪であり、その宗教は邪教と言われた。
互いに譲らないそれぞれの神の信者間では軋轢が生じ、殺し合いが生じ、また同じ神を奉じる仲間同士でも、教えにそぐわないものは異端分子とされ、火あぶりや磔刑に付された。


これは中世ヨーロッパについて述べているのではない。
「神」という概念が登場してこの方、人類の歴史全般にわたり、大同小異であることは言うまでもない。
「神」は時代によっては「理想主義」という決して人間が辿り着けない観念に化けたりもした。
共産主義やグローバリズムといったように・・。
博愛主義や愛他主義や人道主義や、その他どんな美辞麗句でもいい。
それらは「天国」や「極楽浄土」「涅槃」などといった画餅と何ら変わらない。


そこで思い当たらないだろうか?
神はひとまず置いておいて、宇宙と我(個)という図式に。
その構造がすでに二元論であることは自明だが、それは人間というものをどんどん矮小化してゆくのに大いに役立った。


それがどういうことかというと、
「宇宙は広大無辺だ。それに引き換え、人間の何とちっぽけなことか?
偉大な大宇宙の叡智の前で、人知の何と愚かしいことか!」
──大方はそのように考えるわけである。
さながら釈迦の掌の中の孫悟空、それが人間と考える。


スピリチュアルを自認する多くの”先生方”でさえ、いや科学者でさえもそのような認識を持つ。


比較というものは分裂である。
それはまた闘争である。
女性Aが美貌の女性Bと比べるならばまだしも、人間をあろうことか宇宙と比べている。


我々が時折夜空の星を見上げて、宇宙の広大さに思いをはせる。
天文学者が何万光年と離れた星雲を覗き、思わず感嘆する。
そんな中から宇宙に感嘆するのはいいが、その分、片や人間が卑小な存在になる道理はないではないか?


これは神の前の人間と同じ構造である。
いや、遠回しの表現をやめて、ズバリ言うと、

神も人も同じである。
宇宙も人も同じである。
あわよくば、神も宇宙も人が作ったのだ。
そこに一切の対立はない。
比較もない。
ジレンマもない。
疚しさも、卑下するような奴隷根性もない。


勘違いされないでもらいたいのは、人間というとき、そのパーソナリティである「個」を言うのではなく、それは魂を指している。
言うまでもなく、「個」そのものは、ご存じお馬鹿で無知でむら気で助平で間違いだらけで・・の類型的なコンデンスである。


魂という全体像が薄れ、次第に「個」という物質のみを見るようになって、以上のような認識が一般化した。
何度も言うように物質とは過去のものである。
人類はわざわざそこに、何ごとか大きな、偉大な、万能な存在を創り出し、それに依存しながら仮想現実を生きている。
自らこそが偉大で万能で全知全能の本体であることを忘れて、また忘れさせられて・・。


まさに、地上とは思いでならずやである。


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。