ホームズは生きていた
小説家や脚本家は、この現実世界の上に、新たな現実を創り出そうとする。早い話、嘘の世界、仮想現実の世界だ。
この嘘の世界はしかし、生き生きと生命の脈動を伴うことがある。
知ってのように、時折こちら側の現実の世界で一人歩きをするわけだ。
世界的に有名な、かのシャーロック・ホームズ氏などはその典型例だ。実際、小説上のその架空の人物は、あたかも実在するかのようにいくつものエピソードを残している。
架空の人物も実在の人物も一緒
例えば、「ライヘンバッハの滝事件(「最後の事件」)」がそうだ。
あまりに有名なこの小編は、実に作者コナン・ドイルが、物語を終わらせるために書き下ろしたものだ。
宿敵モリアーティ教授と死闘の末、くだんの滝から谷底に落ちて死んだことにしたホームズを、しかし読者は認めなかった。
いまでこそ陳腐なドラマの”言い訳”にしか聞こえないが、
「じつはどっこい生きていた」
ことにせざるを得なかったのである。
「死んでほしくない」「死ぬわけがない」 という感情移入した読者の集合意識は、単に「物語の続きを読みたいから」という物理的な欲求を飛び越えて、ベーカー街221Bの事務所でパイプをくゆらすホームズ氏のホログラムを形作っていたに違いない。
そう、確かにホームズは彼らの中で生きていたのである。
その証拠に、例の滝から落ちたくだりを、掲載誌「ストランド・マガジン」に載せたが最後、世界中から山のような便りがシャーロックホームズ宛てに殺到したのである。
これにはさすがのドイルも弱りはてたようだ。
氏は律儀に読者への返信を送っていた。
「あいにくホームズは留守でして」
差出人は、ワトソン名義である。
想像上の人物であれ、実在の人物であれ、いったいそれらと私たちとの関係性はいかがなものであろうか?
実在の人物と、想像上の人物の影響力とでは、私たちにとって果たしてどの程度の違いや優劣があるのだろう?
ホームズのような強烈なキャラクター(人格)や思考方法から、私たちは無意識に影響を受けていないとは言えない。
「え? ホームズって架空の人物だったの?」
と真顔で問いただすものすら何人もいることだろう。
「えーっと彼は生きてたっけ、死んでたっけ?」
同じことが、すでに他界している実在の人物についてもいえる
高名な哲学者や作家、音楽家などの影響力は、下手をすれば現存のそれらよりも上回っている場合がしばしばだ。
正確さや科学性を問われるような学術論文ですら、よくだれだれによれば、と引用されることが多いが、当の筆者はその人物と生前面識すらなかったなどということも珍しくない。
つまり、赤の他人なわけ。
その人物の残した著作や作品を手掛かりに、さもその人物が生きているかのように、ときにはかねてからの友人でもあるかのように語ったりするということは、彼の中でのくだんの人物はその肉体そのものを指してはいないことだけは確かなようだ。
よくよく考えてみれば、それはあまり科学(少なくとも唯物科学)的ではないふるまいのような気すらしてくる。
いやいや、それが私のような老輩などにかかると、もう科学的もへったくれもない。
「やっぱり(エリック)クラプトンはギターめっちゃうまいなあ」
などと、世界指折りのギタリストに向かって「友達でもないのに別にお前が指摘しなくてもいい」嘆息を漏らしたりが日常茶飯だし、
「やっぱ、ポール(マッカートニー)はメロディーメーカーとしていいが、ビートルズの肝はジョン(レノン)でしょ」
などと、もう生きていても亡くなっていてもお構いなしが日常の光景である。
もちろん、昔の映画などを観ていても、
「彼は生きてたっけ、死んでたっけ?」
といったあんばい。
現実、この未知なるもの
そこで引っかかるのは、 果たして生きている同時代の人間と、 他界している人間と、はたまた想像上の人物とでは、 そこにいったいどれほどの違いがあるのだろうか? という疑問である。
おそらくすでにこの世の人ではないと思われるが、相当な長生きで今もなお人類への影響力が半端ではないと思しき人物がいる。
イエス・キリスト然り
お釈迦さん然り
老子然り
その数は到底十本の指では足りない。
また、ホームズ以外にも、おそらくはこの世に一度も生を得たことがないだろうと思しき有名人や妖精たちもいる。
ハックルベリー・フィン然り
ピーターパン然り
浦島太郎然り
その数は、特に子供の頃に読んだ読書の数ほどだ。
そして、子供ほど親しく彼らと接する。
この世とあの世、あるいは現実の世界と空想の世界の境界線というものは、どこにあるのだろうか?
私たちが「現実」と、さも周知の事実のごとく呼んでいる世界とはいったい何なのか?
ちなみに、あなたご自身「現実」という言葉の定義をさがしてみると面白い。
他人や文献に頼らずにあなた自身の考えでそれを考えるとき、たぶん「現実」の様相はだいぶんと変化していくに違いない。
「ひょっとして、私の『現実』というものは、私自身にしかなく、それは取りも直さず私こそが私の現実を創造しているからではあるまいか?」
といった風に・・・。
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。