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自分とその景色

自分と、その自分が見ている景色は同じである。
しかし、万人が万人とも、両者を分断し、その景色のみに拘泥し、執着し、肝心の自分自身については忘れている。


境遇が、環境が、世界が・・・
つまり宇宙が「我」を規定し(そうあらしめ)ていることは、
すなわち「我」が宇宙そのものであり、それを創造しているからに他ならない。

創造者と被造者は一つである。
(創るという行為は、すでに創られたものを予想しており、創られたものは
それを創ったものの存在を暗示している)
観察者と被観察者は一つである。
(観察する、見る行為は、その対象物と不可分であり、その対象物はそうである限り、観察され続ける)
書き手と読み手は一つである。
(自らが作家であり読者である)
奏者と聞き手は一つである。
(自らが作曲家であり、その演奏家であり、オーディエンスである)
画家は見者である。
(自らが見る者の目線で描く)

世界があって、人々がいて、初めて「我」が存在する。
この事実に共感されるものは多い。
他人ひとがいなくては自分は生きていけない」などの言葉がそれだ。
しかし、「我」がいなくては、人々もいないし、世界が存在することはできない・・という”お話”にはなかなか馴染めないものである。

私たちの思考というものがごく限られており、それは一方を受け入れれば他方を排斥するというドグマからである。
それは部分のみを見て全体を見失っている。
景色を見て自分を見失っている。

「我」が人々・・その賢さと愚かさと優しさと残忍さ、素直さと狡猾さと寛容さと貪欲さ・・の諸々を創った。
白紙のキャンバスである宇宙に「、」をつけては点と言い、「。」をつけては「丸」と言う。
それだけである。
「、」をやめて「。」にしたり「!」や「?」で注意喚起したりするならば、それはそうなるだけである。

その果てすら計り知れないこの宇宙という函があり、
そこに庵を結んでは東屋と呼び、御殿をたてては城と呼ぶ。
ただそれだけのことである。

それだけのことがなぜ可能なのか?
そもそも自由だから何でもできる。
自由とはインタラクティブなものであり、それは暗にどんな行為でも受け入れる無辺の受け皿の存在をも示している。

自らの行為に疑問を持ってみたり、別な方向に向けたり、終わらせたり、こじらせたり、迷ったり、収拾がつかなくなったり・・。
それは考えるからである。
やはりそれはそのようになる。
ただそれだけのことである。

宇宙や人間は自由であり、その思うところのものである。
一切の規制や規定はないし、そこに一切の価値や功罪はない。
それに意味づけするのは決定論であって、それは人間の知恵による後付けの都合のいい講釈に他ならない。

宇宙がそうであるように、「我」には目的などない。
目的があった瞬間に、それは「終わり」や「完結」を予想し、「意味」を持ち、努力や作為や闘争を表し、また制限を設けることになる。
よって、人生に目的があったとすれば、それは人生ではなくエゴイズムである。
人生には目的などないから始発点も到達点もなく、生も死もない。




最後に訪れる”節”

このところ、と言ってもごく最近、ここ一年ほど前からのことでしょうか、自分の中での変化というものを感じるようになりました。
過去に大きな変化と言えるものはニ回ほどあります。
いわゆる老境?ともいえる年齢に差し掛かって、ここにきてまだ変わるのか? とややあきれた心境です。
おそらく、これが最後でしょう。

この私がどう変わってきたのか、などという私的で散文的なことなど、実際読者であるあなたにとってどーでもよいことですが、このことはいずれあなたご自身もぶち当たるかもしれないテーマかとも思い、あえて書くことにします。

まず、次の問いから始めましょう。


あなたの関心事は何ですか?

十人十色、無くて七癖。
人の数だけ個性があり、またその関心事は様々ですね。
さらに、同じ人物であっても、その年齢や環境の変化などによって、興味の対象は変化してゆきます。

関心事、興味の対象というものは、つまり向かうところのものという意味です。何ごとかに熱中しているときは、それがすべてであり、改めて自分が興味があることは何だろうか? などと客観的に自分を見つめることはありません。恋愛期間の熱病などは典型的でしょう。

しかしながら、人生とはごくまれな例外を除いて恋愛ばかりに終始するわけではありません。
みな、何ごとかを求めてそれぞれの行路を往くわけですね。

さて、向かうところのものといっても、齢50や60を過ぎても株式やFXで勝ち抜くために、とか、みんなが投資しているからNISAという手もあるかな、とかのあれやこれやの財テクに腐心しているのは、その行路とは違います。それらは人生ではなく、物生であり物流だからです。

晩年になって、自らの生きてきた道が人生ではなく物生であったり、だれか他人の生を生きてきたと悟り、愕然とするものも少なくないのです。

あなたはある日、心躍らせる音楽を耳にして、俄然自らミュージシャンになることに決めた。
または、ある作家や哲学者の真実を穿った著作に感激して、自らも物書きになった。
あるいは、憧れのアスリートと出会うことから、自分の人生をその道に賭ける覚悟を決めた。

とりわけ若い時分はその目指す方向は様々でしょうが、多くはそうした出会いがあって自分の行路を歩みだします。
サラリーマンであっても、たいていは自身の内側からあふれ出す何ものかの情熱を、本業では叶わないのであれば、人知れず趣味などで発散したりしているものです。


それは壁ではなく節である

それぞれの道は、一体最後まで平行線のまま行くのか、あるいはそれらは最後には大きな一本の道に収束するのでしょうか?

私たちは成長してゆく・・と言われています。
私は「成長」という言葉は嫌いですが、少なくとも年齢を追うごとにその向かうところのものに変化がやってきます。または、何らかの突発的な出来事を契機に、突如として変わることもあります。

それが大きく変わるときは、俄然今いる自分の世界がつまらなく思えてきたりします。または、乗り越えられそうもない「壁」としてやってきます。
私たちはあの手この手でそれに風穴を開けようとアタックします。
でも超えられない。
万策尽き果てて、茫然自失の体であなたは取り残されます。

人生にはいくつかの「節(ふし)」があります。
壁に見えているものはその節であることが多いのです。
節を目前にして私たちは一度死にます。
一度一切合切を清算します。
自己の全否定です。
もうそれまでのあなたや私ではそれ以上伸びません。
あなたや私はそこではもう必要なくなりました。
ジエンドです。

壁は節です。
それは決して超えることができない体でやってきます。
竹の節のように目の前が行き止まりですから当然ですね。
しかし、節という断絶こそが、次なる生をもたらします。
そうして彼は、次なる世界に旅立つのです。
ご存じのように、節のおかげで竹は数十メートルにまで伸びます。

病と同じく、何らかの困難が眼前に立ちふさがったときは、それは節です。
私たちは、そのときこそ自ら次なる世界へ行くために、それまでの自己を一旦締めくくるのだと思っていいでしょう。

さて、だれもがそんな経験をするものだと、あなたはお思いでしょうが、かえってそういう経験をされる人は少なく、節を敵性としてとらえ、その前で斃れる人が圧倒的多数を占めます。

そうした方々は、外見こそ良識ある社会人に見えますが、(こういう言い方は語弊があるようですが)精神的に未熟で幼稚です。
私はそれを文明病だと考えます。


私たちは好戦的である

私が横浜の事務所にまだ籍を置いていた時分ですから、3年ほど前のことだったと思います。
その事務所に、アルバイトとしてまだ大学在学中のうら若き女子が入りました。
彼女は、ある日そのかわいらしい顔に似合わず、こう吐き捨てるように言ったのです。

「ロ〇〇なんて、国民みんな〇んじゃえばいい!」

おやおや? 何事かと思いきや、彼女の頭の中は当時日夜TVなどで流されていたウクライナ市民や兵士の悲惨な姿で一杯になっていたようです。
彼女にとっては一方的に戦争を仕掛けた(とされる)その国の指導者は悪魔であり、その国民までが忌まわしい存在に映っていたのでしょう。

彼女はもちろん無学ではないどころか、都内のいわゆるお嬢様学校に通う娘で、てきぱきと仕事をこなす”模範生”だったのです。
そう、誰が見ても快活で、いわゆる「いい子」でした。

学業が優秀な若い子ほど、この手のプロパガンダにイチコロであることは薄々察してはいたものの、ここまでだとは・・と寒心したのを覚えています。
私は、「えーと、それはね・・」は長くなるしメンドクサイので反駁しなかったものの、その時こう思ったものです。

「ここでも戦争は始まっているんだな」

こうした事例は無数にあります。
戦争は、何も頭のおかしい連中や、軍部や兵隊や傭兵らのみが手を染めるのではない。
虫一匹殺せないような善男善女が、実は引き金を引いているのです。
私たちは誰一人戦争賛成を唱えないけれど、その実大いに好戦的なのです。

もしあなたが、彼女に対して「それは行き過ぎだ」という感慨を抱くのであれば、私たちはみな「行き過ぎ」た戦争の火種を抱えていることを忘れています。太平洋戦争のさなかに「鬼畜米英」で国民一丸となったことは、ついこの間のことです。

所詮、人は自分にとって都合のいい、居心地の良い、自己愛や自己憐憫やらの春風をもって自らのアイデンティティとし、自ら毛嫌いするもの、存在を許せないものなどの秋霜をもって、それらをゴミ箱に投げ捨てるものです。
当然、PCのそれのようにゴミ箱の中身が削除されたわけでも、消え去ったわけでもなく、それは自身のアイデンティティの半面を形成しています。

もっと言えば、そうしたダークな面、恐れている面の反動がその人間の傍目ポジティブな指針や目的、行動になっているとも言えます。
怖れから逃げようとしているのです。


情報や知識に頼るものは自分を見失う

こうした人間像はいったいどうして生まれてくるのでしょうか?

上辺善い人だけれど、中身がない。
だから話をしても面白くない。
友達などたくさんいそうだけれど、腹を割って話すことはしないし、そういう親身な関係の友はいない。
人前では努めて明るい。
自身の発言は、どこかで聞いたような受け売りが多い。
SNSなどでたくさんのフォローをし、フォロワーの数も多い。
他人の反応、毀誉褒貶きよほうへんに過敏である。
流行りの音楽やファッション、トレンド、店から始まって、書籍や著名人などの情報に明るい。
プラス思考(=志向=マイナーなもの、テンションがさがるようなものには近づかない=理由はその方が受けがいいから)。

これらは、当人ではなくてもできる芸当です。
AIでも代行できます。
突き放したような言い方ですが、それはどこまでも作られた(繕った)人格であって、アイデンティティというよりも、むしろ「現象」です。
そこに「個」という主体がない。
どこかの誰かのイメージがウォークインしているにとどまります。

親や学校や社会から高評価を得るために自らを埋没させる。
自らの判断力などはむしろ邪魔になるから、大勢を占める世論などに乗っかる。はみ出さないように、みんなと同じような立ち位置にいる。
そうすれば、安全なポジションにいることができる・・という精神構造です。

これらは、主に学校教育、または(その教育を受けた)親御さんの家庭教育、厳格な宗教的家庭環境などが醸成します。
これについては過去に多く書きましたので深掘りしません。

私はこれを誹謗したり、たしなめようとしたり、諭すつもりはありません。
先に書いたようにこれは文明病だと思うからです。
それは私たちが作り出しました。
ということは、私たち人類の責任です。

彼や彼女らは、心に吹きすさぶような孤独感があります。


それは、自分の問題か?

さて、ここで冒頭のテーマに戻ります。
それは、あなたの関心事ということでした。
人はそれぞれその向かうところのものに向けて人生行路を往くということでした。
その行程には、いくつかの節目があり、そこで大きく自分を変えざるを得ないような局面がある。
それは次なる世界にあなたがステップアップするための踏み台のようなものです。
しかしながら、残念なことに、他人の意見に忖度し、付和雷同しているものは自分の生を生きていないまま幕を閉じることになる、といったことでした。

まあ、それはそれ、いいでしょう。
そんななかで、このところの専らの私の関心事は、自分です。
いえ、もちろんナルシスティックな意味でのそれではなく、私のみならず、あなたにとっても最も身近な「自分」です。

人間は未知なるものに関心を示します。
科学の発見にせよ、芸術家の作品にせよ、その未知なる領域に、自らの手によって新たな世界を築きたいという願望が、そうさせます。

そうした願望が社会全体に向けられたとき、いわゆる陰謀論が現れてきます。

「そもそもそれはいったい何なのか?」「それは果たして本当なんだろうか?」といったアプローチが、ここ数年多くの人々の関心を集めてきたように思われます。
例の疫病騒ぎと、それにまつわる陰謀が端緒になった方が多いのかもしれませんが、政財界や医療などの腐敗と、それに乗じるかのようなマスコミのあまりにも歴然とした嘘が、多くの人々の不信感を煽ったといえるのかもしれません。

奇態なことに、どうしたわけかこの私も40年ほど前からのテーマ、つまり向かうところのものは「世界や宇宙の真相は何か?」などという問題に終始していたものです。それについてはB・フルフォードさんよりもかなり以前から首を突っ込んでいたわけですが、それがここにきて、「世界の問題は詰まるところ自己の問題に集約される」ということに行き着きました。

深く世界を洞察するもの、その裏にある真相をえぐりだそうとするもの、
残念なことに彼らの視点は分裂しています。

大方は、この異常で面妖な世界というものが私たちの生活圏を脅かし始めている、と語りかけます。
このままでは大変なことになる、と。
世の建て替え立て直しの大峠がやってくるとかの「神示」を挙げてみたり、チャネリングによる異星人の「警告」や、霊媒師を通した神霊の言葉などのあれやこれや・・。
それら情報をひっくるめて、世界や宇宙の問題としています。

そこに、あなたと世界の分裂が横たわっています。
なぜなら、真相に迫ったいかなる危機的問題にせよ、それは世界の問題ではなく、あなたの問題だからです。

あなたという存在は「個」ではありません。
それはさながら脳内のニューロンのように、すべての存在と密接な関係性のもとに存在します。
あなたはあなたではありません。
あなたは人類であり、世界です。
今のあなたが世界を創っているのですから、全責任はあなたにあります。
あなたは他人も世界も変えられないし、変えようと思ってはなりません。
それはすでに過去のものだからです。

全責任を担うものは、世界を変えうるものです。
神でも神霊でも聖人でも預言者でも、どなたかの知見でもありません。
世界を云々するものは、自らで、自らの内にその真因を探らなくてはなりません。

それが、すべての問いに対しての簡単な答えです。


蒔かれた種をついばむカラス

そのような認識の下で、ともかく私はもう陰謀論的な探究は止めにしたのです。
陰謀は探究したところで、玉ねぎの皮をむくごとくで際限がありません。
それ以上に、それは自らの知的好奇心を満たすことはあっても、自らそのものには何らの影響も及ぼしません。
なぜなら、真相と言えども、それらはすべて外界の景色のようなものに他ならないからです。
知ったところで、それはそうであるだけで、だから何なのかは欠落しています。

前回にも書きましたように、私たちが見る一切は過去のものです。言い方を変えますと、一切はすでに結果であるということ。
創られたものは、過去のもので、すなわち結果です。
結果をいじくってどーしますか?
この世はマトリクスだといいます。
私もそう思います。
では、そうであったらどーします?
だれが、そのマトリクスの糸を紡いでいるのですか?

私たちは種をついばむカラスのようなものです。
様々な種を賞味しながら喧々諤々、ああでもないこうでもないとかまびすしい。

食べても食べても、しかし種は一向に減らないどころか、かえって増えていっています。
良く見てみますと、畑のかなた、私たちの行く手の前方に、笑いながら種を蒔いている農夫・権兵衛さんがいるではないですか。
それが人生という寸劇です。

私たちはいつまでも与えられた種や作物を食べてばかりではいられません。
もうそろそろカラス役を返上してもいいころではないですか?
いや、カラスはカラスでいいでしょう。
しかし、本来一人二役がこの劇場のルールです。
私たちは餌を与え続けている農夫を探し出し、あわよくば自らその権兵衛さんにならなくてはなりません。
(喩えがアレで、少々難解でしょうか?(笑))

人類は、他の人々(特に政治的宗教的教育的な権威)の発言を鵜呑みにし、それらを信奉することをしてきました。
それは決して自分の考えでも信念でもありません。
多くはその発言の是非よりも権威を受け入れてきたのです。

それらの行為は、抑圧された現実から、幻想の世界への逃避です。
現実を乗り越えるのではなく、横道へ反れることです。
逃避ということは、その前提に、そこから脱出したいという欲望があります。欲望は当然暴力を生みます。私たちの向かうところの日常的・知的・芸術的・経済的・社会的・思想的・宗教的な一切合切もそれらの行為と変わりません。

平凡で機械的な日常からの逃避・・それはレジャーや旅行やファッション、美食、酒、ゲーム、ギャンブルなどの憂さ晴らしから始まって、マネーゲームなどの博打・・それらはやがて人間の知恵や技量が加わることで、そこになにがしかの「高尚な価値」さえ付加されてきました。
小説や映画、美術、音楽、舞踏、社会主義思想など様々な思想への傾倒、瞑想、座禅、ヨガ、スピリチュアリズム、宗教の信心、帰依などの行為がそうです。


最大の幻想「宗教」

宗教は幻想の生んだ最大の成果であり、個人の尊厳を完膚なきまでに剝奪し、信者を喜んで奴隷にしたことでは大きな成功を収めました。
それは、それを目論んでいる政治家ですらなし得ないことですから。

しかし、宗教は壮大な二元性をバックボーンとしています。
例えば、釈迦がこの世の四苦八苦(生・病・老・死・・)から人間を解放するために法を説いたのが真実であったのでしたら、ずいぶんと狭量な世界の見方に思えます。

果たして世界は四苦八苦で満ち満ちているのでしょうか?
果たして生・病・老・死・・が四苦八苦なのでしょうか?
それが異常なことであるのならわかります。
しかし、私の目にはそうした消長は生物学的に見ても自然なことのように思われるのです。

自然なことが苦しみでしょうか?
そうした前提条件の土壌は、すでに「救いの手」を待っているかのように思われます。
「救い」ではなく、「救われなければならない土壌」「救いを待っている土壌」の方が問題ではないでしょうか?

万が一、そこに救われなければならないなにがしかがあったとしても、他人に救ってもらうのならばそれは奴隷で、自らでそれを超克してしまうのであればあなたは克己者であり、自由人です。
言わずと、そこに宗教の萌芽はありません。
ノンプロブレムです。

そういうことです。


人類全体が歩む一本道

私たちの向かうところとは何でしょうか?
これまで挙げてきたような個々に様々な道を歩むことが果たしてそうなのでしょうか?
それらの道が、もし体のいい逃避に他ならない、としたらどうでしょうか?
であれば、人生とは幻想を紡ぎだすことなのでしょうか?

私たちの関心事、生涯のテーマ、ライフワーク。
それらに踏み込むにあたって、多くは何らかの動機づけがあったはずです。
動機づけがあるということは、典型的な二元性の行為です。
それがどのようなものかは、現在のこの世界の姿がそれを代弁しています。
戦争にも動機がありました。
平和の提唱にも動機がありました。
それらを私たちは作りました。

もし、精神世界・スピリチュアルのみを云々するのでしたら、それは分裂しています。
スピリチュアルを語るもののそれはスピリチュアルではありません。
それは逃避であり空想です。
第一、人はスピリチュアルな存在でも物質的な存在でもありません。
もしあなたが体系だったスピリチュアルの概念を持っているのであれば、それは受け売りの偽物です。
なぜなら、スピリチュアルに体系はないからです。
体系立てられるものは、それは物質です。

何か得体のしれない大いなるもの、それを神というのか神霊というのか、スピリットというのか、はたまた守護霊というのか私は知りません。どーでもいいことです。
残念ながら、哀れにも私はそうしたものとはどんどん無縁になっています。
なぜなら、それは自己の分裂による幻影だからです。

人体の未開な部分を開発し、超能力を得る。
私は空中浮揚にも水上歩行にも、幽体離脱にも、手のひら療法にも、錬金術にも・・その他の超常現象に関心がありません。
一体何のための超能力であり超常現象なのでしょうか?
それが進化した人類だからですか?
神に近付くためなのでしょうか?

サーカスの曲芸は、日ごろからの訓練と鍛錬のたまものです。
それは、そうした志向があるものが目指す曲芸です。

私は、普通の生活を超えた修練や修行に興味がありません。
だから、そのためのメソッドがどうしたこうしたは、退屈な学校の授業のようなもので、ちっとも響きません。
なぜなら、何らかのパワーを身につけようという作為は、野心と権威に結びつくからです。
そうした資格を並べた履歴書は、むしろその当人の内面の貧弱さを物語るにすぎません。

私はクスリを飲んだり、栄養を摂ったり、知識を増やしたりすることよりも、むしろ断食したり、余剰なものを祓ったりする方が余程意義深いと考えます。

貧しいもの、愚かなもの、無芸なもの、何も持たないものが幸せになるのでなければ、いわゆる「神」はエゴの神であり、人の身勝手さ、ご都合が生んだハリボテに過ぎません。


私たちの見る景色はそれぞれバラバラです。
それは美しくもあり、醜いものでもあるでしょう。
それは見ている景色だからです。
しかし、その主体である私たちはみなひとつであり、普遍です。
その一本道を歩むとき、私たちはみな理解せずして分かりあい、共感を得るまでもなく一緒です。

それは、そこに向かうとか、始めるとかの姿勢があってはいけません。
少々熱い湯船に入るときのように、そっとつま先から音をたてずに浸かっていくべきです。
そして、何ごともなかったかのように、ずーっと前からそうしているかのようにたゆたっていましょう。


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。