見出し画像

「忙しい」の向こう側

この実生活から離れた事柄を考えている人、哲学的な問題に没頭している人などを見ると、多くの人たちはこう言う。

「私にも時間があったら、そういったことも勉強したいわよ」
そんなことを考えていられるような身分に早くなりたいわ」
「あなたは幸せね、そんなことを考えてられるんだから」
「定年退職したら、そういうこともじっくりと勉強したいな」
そんなことは暇人か金持ちがやることさ」
「あー、もっとゆとりがあったら俺だってそんなこともやるんだけどなあ」
「俺のような社畜にはそんなこと考えてる時間もない。子供の教育費や家のローンもあるし、仕事のことでアタマいっぱいだよ」
「無理無理、ダブルワークで睡眠時間5時間がいいとこ。そんなこと物理的に無理だって」
そういうことが大事だってわかってはいるけど、仕事から帰ってきてすぐちびっこの面倒見ないと、でしょう。で、すぐに旦那さんがご帰宅。TVだって見る時間ないんだから、もう疲れてバッタンよ」


「毎度のこととはいえホンマきっついわ、疲れるで」

「そういうこと」って何でしょう?

趣味? 
遊び? 
ゲーム? 
余裕? 
昼寝? 
好き勝手に生きる事? 
お金にならないけれど好きなこと? 
本当にやりたい仕事?

一体それは何だろう?

一つ言えることは、「そういうこと」は、実はいつまでたってもやってこないということ。
現状の仕事や生活がまずは優先。
それも「そういうこと」のため。

その「そういうことのために、まずは」がずーと続く。
となると、10年後も同じセリフを吐いている。

いったい何を(本当は、本心は)したいのだが、(忙しくて時間がないから、今は)出来ないのだろう?

みんな、それが大事なことであることは知っている。
しかし、優先順位的に、生活の基盤であるおカネを稼ぐことが第一義。
そうして「生活にゆとりができたら」それと四つになって取り組もうと思う。
だから(不本意ながらも)現状の仕事を続ける。
しかし、そこはそもそも嫌々の仕事。少なくとも魂が喜ぶ仕事ではないから、あっという間に膠着する。引きずる。

ゆえに、その日はいつまでたってもやってこない。
そればかりか、現状のままでいいんじゃない? などと諦めモードまでも出てくる始末。
かくして、ようやく「ゆとりができた」暁には、「そういうこと」がなんであったのかすら忘れてしまう。

よく、「やりたいこと、好きなことをしなさい」などと聞かされ、「なるほど!」となっても、「待てよ? そもそも俺様の好きなことって何だ?」
となる者が多い。
自分がなんだかわからないのに、その自分がホントは何が好きなのか? 何を求めているのかがわかるはずがない。

「そういうこと」というのは、何のことない「自分と向き合うこと」だ。

あっけにとられるほど、実に簡単、単純、明快な答えである。
それが出来ない。
誰にでもできるその一事が出来ない。


「あーあ~忙しい~」

忙しいのだ。

右も左も、
上も下も、
自分も。

「あーあ~忙しい~」(♬元歌:「大都会」)

「忙しや、ああ忙しや、忙しや」(元句:芭蕉)

では、その「忙しいこと」の内容は私たちにとって大事なことなのか?
「あの世」まで持っていきたいようなそれなのか?

「その仕事、ホントに大切ですか?」(創作看板の文言)

「おカネのために仕方なく」「いやいや」「めんどうだけど仕様がない」「我慢我慢」「やかましいうえにアッタマ悪~い部長に意味不明の言いがかり的なことを朝から言われても俺は歯を食いしばって耐え忍んでいるんだ」

要は、やりたくもない仕事を嫌々やるしかない。
おカネのため。家族のため。かわいい子供たちのため。家のローンのため。

「どーして上役ほどダメ人間が多いのか?」それが問題だ

「仕事仕事仕事~仕事を休むと~、おカネおカネおカネ~おカネがなくーなる~」
「おカネおカネおカネ~おカネがなけ~れば~、家もメシも家庭もーすぐにーなくーなるー」(♬元歌:「おさかな天国」)


こういう状態の人が「忙しい」人なのでしょう。

「忙しい」の「忙」という字を見て、

「そうかあ、心を亡くすって書くんだあ」

と感慨にふけられた方も多くいらっしゃることでしょう。

そうです。
それは心が「お亡くなりになってしまう」状態を指すわけです。

ここで注意したいのは、あくまでも亡くなるであって、無くなるのではないですね?

死ぬんです。

「はよ、起きなさい!」

ということは、以前は、あるいは、もしかしたらついさっきまでは生きていたということです。

「忙殺」なんぞ殺人事件です。物騒です。

では誰が生きていて、そして亡くなったのでしょうか?

あなたです。

あなたにとっては自分、つまり「吾」です。

それでは、心に吾がある状態はというと、そう

「悟」ですね。

別に道学者的な講釈を述べようとしてるんではなく、フツーの解釈です。

心に「吾」があるのが「悟り」
その吾が死んでしまった状態が「忙」
そこに天と地の開きがあるではないですか?

「我ときてあそべや吾のない心」(元句:一茶)


忙しいことが忙しいのではない

さて、お気づきのように、われわれは「忙しい、忙しい」とやってるけれど、実はそうした状態が「忙しい」わけではないですね?

そうした状態によって、「心が死ぬ」結果を招くこと。
言い換えれば、「心が死ぬ」ほどの何事かの雑事にアタフタしているようなことを「忙しい」と言っているわけです。

ということは、
好きで好きでたまらない、
1億円積まれて「どうぞおやめください」と言われても絶対にやめられない。死ぬほど好きな「仕事」に熱中している場合は、それがどんなに大変でも、時間がかかることでも、”サービス残業”してでも、徹夜しようが何しようがやめられない状態は、本人は決して「忙しく」ないということです。

それはむしろ、忘我の境地、「悟り」でしょう。
「一心不乱」です。
幸せなんです。

忘我


心が亡くなるにせよ、何の前触れもなく急死したりはしません。
予兆があります。
自覚症状です。

それは、不本意な仕事をあっちもこっちもこなさなければならないような状態です。

あわただしい」ですね。

荒れてます。
心があらぶってます。
そういう状態の人にうっかり声をかけると側杖を食らったりします。

分かりやすく言えば「イライラ」ですね。ヤカンの(え? ケトルですか?)沸騰寸前状態です。

だから、そんな状態になったら黄色信号だと思いましょう。


どーでもいいことだから「忙しい」

はてさて、私たちが普段よく口にする「忙しい」という言葉から、とんでもない世界まで垣間見たわけですが、自らを忙しくさせないためにはどうしたらよいのか?  

ということです。

これは、もう逆転の発想で行くしかないではありませんか?

忙中閑ありぼうちゅうかんあり」ではないですが、普段の生活の中に自分と向き合う時間を作ることです。

いや、むしろそうした時間を持つことを最優先に考える、ということです。

皆さんが(もちろん私も)後回しにしようと考えていることこそ、実は早急にやるべきことなのかもしれません。

自分と向き合う。
当たり前のことですね?

しかし、今の社会は厭らしいくらいに、そんな「考える時間」を人に与えないように仕向けられています。

どーでもいいことに気を向けて、肝心なことから目をそらす。
そんな風に仕立てられています。

しかもそれが、周囲の四方八方見渡してもみんなそうであることから、まるでそうしたことが当たり前であるかのように思えてしまう錯覚。

どーでもいいことだから「忙しい」のです。

それを「マトリクス」といいます。

私たちに目を覚めてほしくないものたちがいます。
どーしてだと思いますか?


等しく、強制的に「目覚める」ことに

いまから1300年ほど前のこと。
最澄、空海という若い坊さんがいました。
彼らは、ご存じの「遣唐使船」というものに乗って唐の国に出向きました。
JALやANAやソラシドエアでひとっと飛びじゃないですよ。
木の船ですよ。木っ端です。
しかも過積載。

「へえ」

と思う方は、夜の海、荒れた海を見たことがない方です。
しかも日本海。

正しい反応は、「そんな、、、ありえない」
です。

いつ難破して、行方が分からなくなるやら知れない船です。
ロシアンルーレットのように、生存確率に依存するような航海。

しかし、彼らは向かった。

何しに行ったのか?

が問題です。

金銀財宝を求めていったのではありませんね。
明治期のように、西洋から近代技術を教えていただく代わりに、ニッポンの「絹」をどーぞ、ということではありません。
ビジネスではないのです。

「法」です。
「真理」を求めてわざわざ彼の国に渡った。
天台、真言云々以前に、眼に見えないもの、形のないもののために、彼らは命を張ったのです。

ここが重要です。
ここから、冒頭で挙げた「恨み節」に戻ります。

「私にも時間があったら、そういったことも勉強したいわよ」・・・

まさしく、彼らはじめ多くの”目覚めた人たち”は、「そういったこと」に命までかけた。
「そういったこと」とは、まさしくそういったことである。


今までの時代は、ポツポツと目覚めた人たちが現れた。
しかし、これからは「イベント」を皮切りに、目覚めた人たち、いまだ目覚めていない人たちそれぞれの前に等しく、しかも強制的に「アセンション」の波がやってくる。

そういったことである。





東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。