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【カルマ】アセンションと利己主義と

「カルマ(karma=サンスクリット語कर्म)」という概念が、カバールの”嘘八百”の中でも成功した一例であることは意外に知られていません。もっともその工作は、数千年前のインドのこととのことですから、もはや誰もその真偽を確かめる術はありません。
もし、それを疑われるならば、大宗教の「開祖」がそれを語っているかを調べられることと、そもそも預言者や覚者(開祖・教祖)が「自らの宗教」を作ったか? を振り返られるといいです。
(そこに、大昔から存在したサドカイ人やパリサイ人やそれに類似する存在がオーバーラップしてきます。)
カルマは、ジャイナ教やヒンズー教、仏教にも取り込まれ(浸食され)、ちょうどキリスト教の「原罪」同様、宗教という奴隷システムの屋台骨を構成する大事なファクターとなっています。

わが国固有の「神道」が宗教ではなく、特定の「神」も不在なことはご存じかと思います。そうした場合、やれ「アニミズム(自然崇拝)」だとか解釈し、いかにも原始的な文化であるかのような錯覚を植え付けます。
しかし、それは、自然や神(創造主)と自己を区別しないという達観に基づいた世界観(一元論)であることは、何度も述べました。
もちろん、そこには「死後裁きに合う」的カルマ思想などは皆無です。
もっとも後世の「神社神道」「教派神道」「国家神道」「皇家神道」など「権力」あるいは「統治」の道具になったそれは、古来のそれとは別物ですが。

釈迦にせよ、イエスにせよ、不完全な”如是我聞このように私は聞いた”とはいえ『スッタニパータ』や『新約』などを散見しても、その言葉は訥々と日常生活での”気づき”を方便や喩えで語っており、後世、宗教になってからの著しい「神格化」とそれに伴う形而上学的、神学的な内容は、いわば「盛りすぎ」だと思うのは僕一人ではないだろう。実際絢爛豪華な「宗教」の笠の下に、人類支配の道具を組み込むことが容易であったことは想像に難くない。
とりわけ哲学的な要素が濃い仏教には、「因縁」や「縁起」という思想はあるものの、それはこの世の無常の構造を示すものであって、「カルマ」とは無関係である。


アセンションを阻むもの、宗教

カルマや原罪という概念が、「救い」や「天国」果ては「涅槃」や「アセンション」というものとセットになっているということは、お気づきのように二元論(嘘)ですね。
そもそも、それはカバールの親玉「アルコン」の策略であって、アルコンは「偽の神」ですから、偽の信仰を作っても何ら不思議はない。
アルコンは、地上人類の輪廻転生を司る「カルマの主」であり、「ヤハウェ」または「ヤルダバオート」としても知られるエンティティです。
この存在が、ずーっと長い間地球に憑りついていました。

お話を簡単にすると、
昔々、アトランティス大陸に潜り込み、次第にその勢力を拡大していった黒魔術使い(アンドロメダ出自のアルコン=その後オリオン座のリゲルを経由して最後の砦・地球を侵略・征服した。今ではイタリアの「黒い貴族」として知られるそれが末裔。バチカン始めイエズス会などを牛耳る)が次第に勢力を強め、ついに大陸の沈没という暴挙に出た。
25000年前のことです。
その後、時代は下って、インドという善と悪、聖と俗の混在する大陸で、今度は人類支配の仕組みを考えちゃった。
おそらく5000年以上昔の話。

ちなみに、ガンジーの座右の書でもあった『バガヴァッド・ギーター』を含む『マハーバーラタ』はじめ『リグ・ヴェータ』『ラーマーヤナ』などの聖典や叙事詩に核戦争らしき記述があるのは、彼らと光側のアルデバラン(=おうし座α《アルファ》星)勢力との戦争を表し、この戦いでは彼ら闇側が勝利したという優勢な背景もあったらしい。今日のUFOであるヴィマナ(vimana)が大空を飛び交い、戦いは熾烈を極めた。実際にデカン高原その他には超高温でガラス化した石や砂、溶解して錫状になった遺跡などが多く発掘されています。(余談ですが、アルデバランの方々といえば、あのヴリル協会の美女マリア・オルシックが親しくしていたわけで、何かと人類とは因縁が深い。目下のところ地球を救うべく、また光側の救援部隊として先陣を切って活躍しているらしい。太古インドでの雪辱もあるのでしょうし)

さて、アルコン・偽の神は、巧みにカースト制度なども利用し、「カルマ」という実に老獪かつ狡猾なアイディアを発明しました。
実際、奴らは2万年以上この方地上人類の「輪廻転生」を物理的にもプラズマ的にもエーテル的にもアストラル的にもいいように支配・操作してきたから、その事実を隠蔽する意味でも、この「カルマ」という”闇の因果律”の発明はまことに都合のいいものだったわけです。
「カルマ」(語源はサンスクリット語)は、日本語では「業」と訳されています。
要は「親の因果が子に報う」とか「前世の悪行を今償っておるのだ」的なレトリック。
これは、あまり触れるものはいないが、「だから善行を施すのじゃ」的な霊的なギブアンドテイクみたいな感覚のシープルを作る。
そう、言うまでもなく、だから「○○なさい」という宗教的な方便に都合がいいわけです。

このようなことを書くと、人類何十億という方々を向こうに回すようですが、そもそも「めしいている」人々にとっては、こんなお話は屁の河童。「なにおかしなこと言ってんの?」程度で相手にされないから、逆に一安心ではあります(なにせ、何千年もの間、宗教家や仏教学者などがさんざん取り沙汰してきたテーマでもあり、「偉い先生」が語っているわけですから無理もありません=キリスト教における「原罪」も同様ですよ)。

これら宗教や道徳の仮面をかぶった「呪縛」を払拭しない限り、僕らはまたぞろ進んで支配・被支配の構造マトリックスの中に身を投げるだけだ。(それは人によっては、自身のアイデンティティを一旦ぬぐい捨てるような”過酷”な行為かもしれない)

さて、僕がなぜに唐突にこのような問題に触れるのか? といいますと、僕の考えと近似しているある一文を読んだからです。僭越かもしれませんが、ここに僕の代弁者を見る思いがして、ドキッとなったわけです(「神霊を敬して遠ざける・・」など、過去の拙稿を参照ください)。

もしかすると、ことのほかアセンションが重要であるのは、むしろ80億人の人類の半数以上を占める(何らかの宗教の)「信者」を覆っている「教義」そのものであって、それらが集合意識の塊になって(何人も疑わない)道徳観や社会通念になっているからかもしれません。

ま、四の五の言う前にここに全文を引用してみますね。



アセンションとカルマの起源

起源は曖昧で、常に古いものです。

ニューエイジコミュニティでは、アセンションはさまざまな経験やプロセスを表すのによく使われる言葉です。この記事では、ほとんどの視点が含まれることを期待して、アセンションをできるだけ広く定義します。

アセンションの核心は、私たちが単なる肉体を超えた存在であり、私たちの意識は肉体とは別個の多層的な認識者であり、非物理的な次元に上昇することができるという認識です。このアセンションは、必ずしも死後の経験やプロセスである必要はありませんが、個人が覚醒または活性化したときはいつでも開始できます。

この信念は非常に長い時間を遡ります。原罪は、救いと結びついて、アセンションの概念に関連しています。私たちは肉体、罪、闇、無知に「堕落」し、キリスト、神、聖霊など、何らかの形の恵みによって救われます。救いの恵みとは、活性化、目覚め、または再生です。この活性化に続いて、私たちはより高い振動、より純粋な状態、愛と調和の状態というスピリチュアルな目的地へのコースを設定します。

これらはすべて、目的地が利己的で放棄から成っていることに気づくまでは、良いことのように思えます。あなたは全体ではなく自分自身の精神的な目標に焦点を合わせているので、それは利己的です。それは、あなたが地球の人間レベルを離れて、天国のより高い領域を探索したいと望んでいるからです。あなたは天を求めて地を捨てようとしています。私はこの方向性を批判しているわけではありません。私は現実を指摘しているだけです。



利己主義と放棄の問題

最初の問題、利己主義を考えてみましょう。私たちのほとんどは、他人を助けるためにはまず自分自身を助ける必要があるという概念を聞いたことがあるでしょう。言い換えれば、自分自身に集中して、学んで、学んで、学んでください。私たちはアセンションし、アセンションを続けるために教訓を学ばなければなりません。そうしないと、不幸にも人間 (またはそれ以下) の姿に戻ってしまいます。これがカルマがアセンションにつながる方法です。カルマは、人を経験のより低い次元に束縛する重力です。それはアセンションに対抗する力です。

もし私たちが人間の形の中で無限の存在として生きているとしたら、私たちがすべての生命と一つで平等であると本当に信じているなら、私たちはアセンションしたときに一体どこに行きたいのでしょうか?人はアセンションし、他の人間をカルマと混乱の手中に置き去りにすることができるでしょうか?戦争、貧困、恐慌、虐待が蔓延する世界で悟りを得ることができ、それを本当に悟りと呼ぶことができるでしょうか?



天国の至福または涅槃へ上昇します。これは利己主義ではないでしょうか?私が言いたいのは、心の中に平等の周波数を保ち、自分自身のアセンションに集中することはできないということです。もしあなたが「I AM WE ARE」という意識を受け入れ、主権者として能力の限りを尽くして生きるなら、あなたは人民の一員です。あなたは一人であり、平等です。あなたはすべての生命の実現を目指して活動しているため、個人としてアセンションするのではなく、すべての人が理解できるように共有される無限の自己の実現を集めています。あなたはできる限りの方法でこの認識を地球とその中の人類にもたらしています。

アセンションとは、個人的な興味のためにエネルギーと時間を個人的に投入することです。それは前向きな目的を果たすこともできますが、私が言いたいのは、実際にアセンションが分離という構造から生まれるときに、それはあなたをすべての利益のためにやっていると思い込ませることにもなり得るということです。

考えてみてください。私はカルマの虜になっている人々から離れて上昇します。そうすることで、欺瞞と幻想の「蜘蛛の巣」に囚われたままの人たちよりも私を良くすることができます。それは私を分離させます。私は、無知の泥の中で苦労している弱った人間ではなく、精神的なエリートと一緒にいます。私は意識のはしごを登り、自分自身を向上させています。どうしてそれが悪いのでしょうか?


そうではありません。私はそれを悪いとか間違っているとか判断しているわけではありません。私が指摘しているのは、ソブリン・インテグラルの視点は、私たちは無限の自己において平等であるということです。私たちの無限を覆うものは、地球上で私たち全員が身に着けている人間の道具であり、この人間の道具は、すべての量子オブジェクトを私たち自身から分離したものとして屈折させるように設計されています。人間の道具、つまりその経験の認識は、プログラムだけを明らかにし、それが巧妙に隠している無限の存在を明らかにしません。

したがって、プロセスとしてのアセンションを受け入れることは、私たちが分離することを奨励します。主権者インテグラルの意識にはエリート性はありません。実際にはその逆です。それは、私たち全員が一体性と平等の中で生きていることを認識し、それを行動で最大限に表現することです。そのためには、私たちが有利で超越的にさえ見える見せかけを打ち破り、障害や判断なしに自分の高潔な心を真に表現できるようにする必要があります。

2 番目の問題、放棄について考えてみましょう。もし私たちが霊的な上昇のために地球と人類を捨て、私たちが目指しているそのより高い場所が幻想の固定物のままであれば、私たちはある幻想の場所を別の場所に放棄することになります。それは私たちをどのように改善するのでしょうか?

私たちは皆、 「地上の天国」という言葉を聞いたことがあるでしょう。それは主権的統合意識の非常に現実的な構造です。それは、無限の自己を実現した状態で生きることが人間という道具の中で可能であるという概念です。人は無限の自己に気づくまで、高次の世界、悟りの光、あるいは天上の世界が自分たちの目標であると考えてしまうのです。

彼らは、見知らぬ土地で見知らぬ人との愛を経験するために子供たちを残した女性のようなものです。その愛は本物ではないので長くは続かず、彼女が子供たちのところに戻ると、彼らは彼女のもとを去っています。母性の絆が切れてしまったのです。霊的なものを理解するために物質的な世界を放棄すると、私たちは人間の次元との絆や、地上に天国を生み出す役割を担う可能性を失います。私たちは皆、天国、つまり全人類が共有できる主権的統合意識状態を地上に確立するための助産師であることを忘れています。

地上に天国が決して起こらないのは人間の道具のせいだと多くの人が考えていると私は思います。私たちが人間である限り、私たちは限界があり、卑劣です。私たちは快楽と生存を求めます。私たちは動物です。私はこの信念を理解していますが、地球上に主権的統合意識を誕生させるこのプロセスの範囲は、偶然に任せられるものではありません。私たちの種の目的は、妄想、幻想、歪みから解放され、澄んだ目で自分の深みを見つめることであり、人間の体で地球上に生きながらそれを行うことです。

これが私たちの使命です。私たちの集団的な目的。どんなに時間がかかっても。たとえ達成することがどんなに困難であっても。それは起こるでしょう。

ジャン=リュック・ピカード大佐の言葉を言い換えると適切だと思われます。「我々はそうするだろう」。

James Mahu(ジェームズ・マフ)=本文中太字:Monikodo、出典:以下参照

要するに「もしアセンションが可能であったとしても、自分だけ、自分一人だけが(他のすべての人々を置き去りにして)その”天国”とやらに行くべきなのか? それは利己主義ではないだろうか?」という問いかけです。

また、その「アセンション」は、「カルマ」とセットのものであって、常に「自分を高めなくてはならない」「そうしなければ地べたに落ちてしまう」といった一種の強迫観念を呼び込むもので、これは僕のいう「アルコン」の策略で、単にそれの手玉に乗っている構造です。
もちろん二元論です。

そもそも「すべての人類が一つである」という認識に立つものが、どうして自らが(抜け駆けするかのように)「高次元」だの「5次元」だの、「天国」を目指す必要があるのだろうか? それを目指すのならこの地上にこそ「天国」を実現すべきではないか?

この視点は、僕がこのブログを書きだしたころからの一貫したテーマなので、僕がそうした多くのスピ系の「アセンション」を目にした際の違和感といったものは、この利己主義に起因するものだと納得するものです。逆サイドから見れば、僕のような視点は煙たかったり、単に「偏屈」にとらえられるんだとも思う。

著者のジェームズ・マフ氏については、上記サイトの『イントロダクション』を引用しましょう。

意識の動きと相互のつながり(MOVEMENT OF CONSCIOUSNESS AND INTERCONNECTEDNESS)

2023年に発足したMOCIは、科学、宗教、哲学には、彼ら自身に過失はないが、意識と相互のつながりの謎を解読するために必要なツール、言語、視点が欠けていると提案している。


意識の動きと相互のつながりは、事実上、芸術や物語という媒体を通じて私たちが意識を認識するレンズを微調整しようとしているのです。不可知論的で哲学的な芸術は、私たち全員が一つである広大な意識領域の一部として自分自身を体験し、想像する能力を私たちに提供します。

MOCI の設立資料は 1 人の個人 (James Mahu) によって作成されているため、どの組織からも独立した状態を保つことができます。それらは音楽、ビジュアルアート、小説、哲学的著作の多面的な表現であり、共通の目的は、意識と相互のつながりを探求するための入り口を提供することです。人類にとって謎のままである2つの最も重要なこと。

ジェームズ・マフ『イントロダクション』

アセンションは利己主義か?

アセンションとは特別な何かでしょうか?
特別なそれであったとすれば、
あるいは利己主義だとすれば、
何がそうさせるのでしょう?

それは、二元性の枠内でアセンションを見るからです。
別の言い方をすれば「カルマ」という(モフ氏のいを借りれば)重力とせめぎ合う構造がそうさせるのです。

「カルマ」をきれいさっぱり取り除いた見方はこうです。

アセンションは利己主義です。
それは、およそ個人に集約された願望の中でも最大のものです。
しかしながら、利己の極は利他です。
超利己主義=アセンションです。

食欲、金銭欲(物欲)、所有欲、性欲、知識欲、権力欲、支配欲、名誉欲・・・人の数だけ、いやそれ以上に「欲」があります。
その中でも究極・最大の「欲」こそアセンションであり、アセンション願望でしょう。
つまり、人間ここまで至らなくてはダメだということ。

ここで、ためしに世界を見まわしてください。
”ちっさく”ないですか?
何がって、「欲」「願望」が。
上に列挙した小さな欲望のオンパレードではないですか?
その真犯人こそ「カルマ」です。

あなたは見ることでしょう。
それらが「陰謀」や「スパイ」やら「工作員」やらを生み、「犯罪」や「戦争」を巻き起こしている現実を。

女の子にモテたいとか、高学歴を目指すとか、イーロンマスク級の大富豪になるとか、いやいや始皇帝の「不老不死の欲求」などですら、聳え立つアセンションの高楼と比べれば”ちっさい”ものでしかありません。
第一、そこには決まって周囲との軋轢が生じます。

アセンションこそ、何ものにも満足しないいやしいものが目指す究極の世界です。
もっとも、この場合の「賤しさ」というのは、生命の欲求という人間最大の尊厳に対する宗教的で道徳的な、つまり”この世的”な角度からの物言いです。
実は、胴慾無双の彼こそこの世の帝王です。
究極では万人がそこを目指しています。

そしてあなたはさらに気づくでしょう。
そう(アセンション)させないがために人間は、小さな小さな欲望という罠に閉じ込められているのだということに。

アセンションは特別か?

「時折悪いこともするし、カネが神だし、それでいて甲斐性ないし、助平だし、大食いだし、まともな仕事もできないし、本なんて読まないし、馬鹿だし・・・こんな俺がアセンションだって? それを聞いてハクション大魔王も腹を抱えてるぜ

「いつまでたってもくだらないことで揺れ動く世界。結局人間ってもんは駄目なんだ。こんなどーしようもない人間に、どんな未来を託せるのだろう?
アセンションだなんて笑わせるな。そんなもん百年たっても千年たってもどこにもアラセンデショ

自然界を見てみましょう。

個体→液体→気体(→プラズマ・・・)

「相転移」ですね。

例えば氷を解かせば水という液体になり(融解)、その水を沸騰させ、蒸発(気化)させれば水蒸気になります。

”当たり前”ですか?
不思議ではないですか?

芋虫→サナギ→蝶
もそうですね。

あなたが仮に「氷」になったとします。
熱で溶け始めます。(「オイオイ、ちょっと待ってくれ!」)
さらに熱されてあなたは空中に水蒸気として漂うなんて、まさかの事態。(笑)

あなたが芋虫で、この枝かなんかを這っていたのが、急に体調に異変が起きて固まっちゃった。
おやおや、体は急速に溶けていく。
「死んじゃった」とあなたは思うが、あなたは固まったままサナギになって生きている。
その証拠に心臓はバクバクと鼓動している。
「もう放っておいて」と思うもつかの間、なんと背中のあたりから羽が生えてくるではないか?
まさかの「空中浮揚」。
自分の抜け殻を空から見下ろしている。

当事者(過去の自分)にとっては「ありえない」ものに変化する。
それは、恣意的なものでしょうか?
それとも、自然なことでしょうか?
もし後者であるとしたら、自然とは偉大なマジシャンではないですか?

そこに、拭い去れない疑問が、ふつふつと湧いて来ます。

「いったい人間が、どうしてそうあってはならないのだろうか?」

もし、そうあるのであれば、人間の未来は・・。
そう、「あり得ない」もの以外に、あり得ない・・・・・のではないか?

アセンション、アセンド当たり前。おっと、コイツはお祭りだー、あーめでてーな、めでてーな、みたいな。

3次元が、やにわに5次元になるんではないですよ!
SFじゃないですから、ドラえもんのように5次元のポータルを抜けて、夢の世界へ「お邪魔します」じゃあないですよ!(笑)
突然5次元がやってくるわけではなく、それは始めなきはじめからそこにある世界です。

3次元世界しか見えなかった「自分」が、5次元世界の「自分」へと意識を拡大させることがアセンションですね。
また逆に言えば、天体の運行や配置(みずがめ座の時代)が、人類をそのような機運に仕向けているとも言えます。

まとめ

ここで挙げた「WingMakers」には、おそらく地上で最大の謎である古代のセントラルレース(宇宙の中央銀河の種族)の名の意味があります。
その名を冠したこのサイトの美しく洗練されたデザインにまず驚かされます。そこには、マフ氏の小説はじめ、哲学、音楽、潜在意識を喚起するようなシュールレアリスティックな絵画などが掲載されています。
このサイトの主要なテーマである「ソブリン・インテグラルSovereign Integral」という概念は、人類の神聖不可侵な存在「意識」を指す言葉と解釈しますが、マフ氏は、『The Sovereign Integral』の中で「意識」についてこう語っている。

スピリチュアルな方法論、信頼できる方法論、宗教、さらには個人のスピリチュアリティによってもそれにアプローチすることはできません。それは純粋な哲学を通してアプローチされます。

『Sovereign Integral』(新しい存在モデル)ジェームズ・マフ


いくらそこに「共通項」を見つけたからといって、僕のような”風来坊”とは違い、彼は、「意識」について20年余も四つになって取り組んできた男。

薄っぺらいチャネリングで5次元を云々するのではなく、この3次元を離れて何するものぞ! この3次元の現実世界にこそ、5次元の夢の世界を実現するのだ!

彼のようにクリティカルな目線(宗教という呪縛を離れた)こそが、次代をリードするだろう。ちなみに、ここでいう僕との「共通項」とは、単なる思い付きではなく、人類の潜在的な共通概念(集合意識)にメスを入れるという点でのそれです。

もっと端的に言えば、長年にわたって騙され続けてきたうえに、そうとは知らず、さまざまな色を塗りたくっていたものの化けの皮をはぎ取るということです。

WingMakers の哲学の中心は、私たちはさまざまな周波数や振動レベルの経験が存在する多元宇宙に住んでいるということです。この宇宙論的構造の中には、私たちの多元宇宙のあらゆるレベルに存在するエネルギー的な存在である、単一で非二分法的な存在であるファーストソースがあります。Source Intelligence は First Source の「目と耳」であり、IT を人間、動物、植物、鉱物の領域に投影し、すべての生命体をエネルギー的に相互接続できるようにします。

WingMakers『philosophy(哲学)』より

人類が考えた神と霊は、宗教建設者によって隠された目的のためにデザインされました。これらの隠された目的は今日まで続いており、これが外に表れた結果、人類は不自由になり、分離し、投獄されています。

WingMakers『philosophy(哲学)』より


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。