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オリジナル小説『偶像無力』 二話(先行公開)

 ゴミ袋を廊下に出して、扉の鍵を閉め、四部屋分歩いた先にあるエレベーターのボタンを押した。
 ……結局、何も思い浮かばなかった。
 何か考えようと費やした時間で出来たものは、煙草の剣山だけだった。
「はぁ」
 大きめのため息。同時にエレベーターが到着した。
 一階のボタンを押して、扉を閉じる。

「……」
 燃え尽きたのかもしれない。
 新井さんからホラーを書かないか提案されたあの時から、『呪縛の男』の構想を思いついた。プロットを作るのにも時間はかからなかったし、新井さんのチェックも一発で通過した。そこから本編を書き上げるのに一ヶ月もかからなかったと思う。大筋は変更なく、細かな修正をかけて『呪縛の男』は完成。世に放たれた。
 がむしゃらだった。あの時はとにかくこれを書かなかればいけない気持ちで溢れていた。

 煙草が吸いたい……。
 エントランスを抜け、自動ドアを通る。
 春の陽気が心地い朝の何気ない住宅街。そこに浮かぶ一人の若い女性に思わず釘付けになった。
 少し冷たさの残る風でなびく黒髪。春らしい白のトップスに淡いピンクのスカート。白いサンダル。

 恋愛小説のワンシーンみたいだな。
 女性はエントランスに向かって白いサンダルの踵を鳴らしながら、歩いてくる。
 ということは、マンションの人か。

「おはようございます」
 私がすれ違いざまに挨拶をすると、女性はハッと顔をあげ「おはようございます」と慌て気味に返し、自動ドアを通っていった。
 ゴミ捨て場へゴミ袋を置いて、カラス除けのネットをかける。
「あら、水野先生」
 声の方を向くと、マンションの管理人である初老のご婦人が立っていた。
「おはようございます」
「どう?新しい部屋は」
「もう片付いているので、快適ですよ」
「あらぁ、昨日のうちに頑張ったのねぇ」
「優秀なお手伝いさんの手を借りたので」
 ご婦人は上品に笑った。

「あ、そういえば、ゴミ出しのネット、忘れないでくれてありがとう」
「いえいえ」
「これ忘れちゃうとね、あちこちからカラスが寄ってきて大変なのよ」
 前に住んでいたところは、朝のゴミ出しの時間を狙ったカラスが大量にいたっけ。
 毎回、カラスに効くらしい超音波アプリを起動させたスマートフォンを片手に持ちながら、屁っ放り腰でゴミを捨てていた記憶が蘇る。
「カラスってやっぱり怖いでしょ?」
「不吉の象徴とも言いますしね」
「あら、もう、先生ったら。怖い話がお得意なんだから」
 そう言って、ご婦人はまた笑った。
 とても和やかで話しやすい、素敵なご婦人だ。
「それじゃ、水野先生。また」
「はい、失礼します」
 ご婦人に会釈をし終えた私は、自動ドアを通り、エントランスを通り抜ける。

「あれ」
 いなくなっていたと思っていたエレベーターが扉を開けて待っていた。
 さっきの女性は階段を使ったのか?
 それ以上深く考えずにエレベーターに乗り込んだ私は思わず息を呑んだ。
「……」
 エレベーター内のボタンの前に、先ほどすれ違った女性が俯き加減で立っていた。

「……」
「……あの」
 女性に話しかけられる。
「……はい」
「……何階、ですか?」
「あ……えと、五階です……」
「……」
 びっくりした。
 真四角の密室。電光版の階数が二階へ変わる。
「……あの」
 背を向けたままの女性が話しかけてきた。
「はい」
「……あの、あ、えと……さっき、管理人さんとのお話……聞こえてしまったんですけど……」
 階数が三階へ。
「あの……水野先生って……」
 階数が四階へ。
 変わったと同時に女性が振り向いた。
「『首輪の姫』の水野真先生ですよね!?」
 興奮気味の上ずった声と同時に五階へ到着した。
 エレベーターの扉が開く。

「あの……」
「私、先生のBL小説、大好きなんです!」
「……五階です……」
「……あ……」
 女性は、申し訳なさそうな顔をした。そして、勢いよく頭を下げた。
「すみませんっ、私、早とちりして……!」
「あ、いや、そっちでなく……。階数の方の」
「え?」
 女性は、私が指す方へ首を捻った。
「あ」
「ではこれで」
 言いかけた私の横を女性が通りすぎるのに合わせて、細かい黒髪がふわりと風に乗る。
「あの」
 女性はその場でくるりと半転した。
「私も五階なんです」
 そう言って、にこりと笑う。
「そう、だったんですね」
 女性の横に立ち、歩幅を合わせて『504号室』を目指す。
「私、先生の作品、全部読んでます。『呪縛の男』もすごく面白かったです」
「ありがとうございます」
「でも、先生の作品の中でも『首輪の姫』が特に好きなんです!」
「あ、ありがとうございます……」

 まさかこんな日が来るなんて……。
 『水野真』といえば『呪縛の男』。それが当たり前になっていた。世間的にも私の中でも。
「感激です……。大好きな作品の先生にお会いできるなんて……」
「ありがとうございます。その……BLの方でお声がけいただけて……」
「え?」
 女性は『503号室』の前で立ち止まる。
「……」
 私は、『504号室』の前で立ち止まった。
「私の書いたBLが好きだと言われたのが初めてだったので……その、驚いてしまったというか……」
 あぁ、作家として見せてはいけない部分を曝け出してしまった。初対面のファンの前で。
「すみません、忘れて」
「私」
「え」
「私、『首輪の姫』を読んだ時、嬉しかったんです。本当に心から好きだって思える作品にやっと出会えたって」
 女性は真剣な面持ちで続ける。
「私、救われたんです。先生のBLに」
「……」
「先生のBL、本当に大好きです。もちろん、BLじゃなくても。私、先生の作品が大好きです。だから、これからも応援してます。隣で」
 ……隣?
 女性の手には、いつの間にか鍵が握られていた。『503号室』の鍵穴へ差し込み、捻ると鍵が開く音が廊下に響いた。

「驚かせてごめんなさい」
 扉を開け、女性が私の方へ首を捻る。
「隣の伊奈川真菜《いなかわまな》です。水野先生」
 女性……伊奈川さんはそう言ってにこりと笑った。
「お隣として、ファンとして、何かお手伝いできることがあれば言ってください」
「ありがとうございます、伊奈川さん」
「気にしないでください。それじゃあ」
 伊奈川さんは軽く手を振って、扉を閉めた。鍵の閉まる音が廊下に響く。
「……」
 事実は小説より奇なりとは、まさにこのためにある言葉なのかもしれない。

 *
 
 ゴミ出しの時にすれ違った伊奈川さんのことを思い出しながら、換気扇の下で煙草を吸う。
 本当にいい画だったな。
 吐き出した紫煙が換気扇に飲まれていく。
 恋愛もの……少し古風な……お嬢様と殿方の……。
 灰皿へ煙草を押し付け、換気扇を切った。

 リビングへ移動し、パソコンを開く。
 今日は通販で頼んでいた新しい家財が昼頃に届く予定がある。まだ時間はあるし、次の新井さんとの打ち合わせのために思いついたネタをまとめておこう。

〈恋愛もの〉
〈昔風の〉
〈年上の殿方と若めなお嬢様〉
 ……昔風なら、和製ホラーものか。
〈因習〉
〈風習〉
 ……殺人鬼。
〈好きな人を守りたい〉

 思い浮かぶ単語や要素を無言で打ち込んでいく。創作で一番楽しい時間。
「……」
 これがずっと続けば楽なのに。
 キーボードを打つ手をとめ、肘をつき手を組んで額を乗せる。
「はぁ」
 自分が今まで難なくやってきたことが、こんなにも難しく厳しいことだったと現実を叩きつけられてからずっと私はどこか臆病になってしまった。

『BLってハッピーじゃなきゃいけないんですよ。じゃないと、BLとして成立しません』
「……」
『私、先生のBL小説、大好きなんです!』
「……」
 もうずっと触っていなかったフォルダをダブルクリックで開いた。

〈首輪の姫〉
 伊奈川さんが好きだと言ってくれた作品。私が書いた最後のBL作品。

〈バッドエンド〉
〈執着攻め×姫顔受け〉
〈話重視〉

『幸せな話だけじゃ、嘘だらけになる気がするよ』

 間違いなく、ハジメさんのこの言葉から私の作風は決まった。
 幸せな話が嫌いなわけではない。読めない訳でもない。
 ただ、幸せだけでは満たされない心や境遇もある。それだけ。

 煙草吸おう。
 立ちあがろうとした時、パソコンに新着メールの通知がついた。
 なんとなく誰からのメールか予想しつつ、メールを開く。予想した通り、新井さんからの打ち合わせの日程についてのメールだった。
「明日……」
 パソコンのカレンダーを開く。特に何も書いていなかった。
 短く了承の旨を返した。
 台所へ移動し、換気扇をつける。
 ……頑張れそうな気がしてきた。

 *

 昨日の夜はかなり捗った。おかげで、久しぶりに寝不足気味だ。
 エレベーターを降りて、エントランスを通る。
「あ、水野先生」
 ゴミ出しを終えた伊奈川さんが声をかけてくれた。
「おはようございます、伊奈川さん」
「おはようございます」
 ゴミ捨て場にゴミ袋を置き、ネットをかけ、伊奈川さんの横につき、エントランスへ移動する。
「昨日はありがとうござました」
「私、何もしてないです!むしろ、すみませんでした。途中、自分の話なんかして……」
「いいえ。おかげで元気になりました」
 伊奈川さんがぴたりと止まった。合わせて私も止まる。

「……私が……先生を……?」
「はい。正直、最近どうしたものかと考えている時間が多かったので……すごく助かりました」
 ゆっくり向けられた伊奈川さんの顔はきょとんとしていた。
「私が先生の力になれたんですか?」
「はい」
「っ」
 伊奈川さんは、両手で口を覆った。
「もったいないおことばです……せんせい……」
「ふふ」
 伊奈川さんの素直なところに思わず笑ってしまった。

「私、今、すごく、生きててよかったなって、思います」
「光栄です」
「現実じゃないのかもしれないですね……」
「ははは」
 ハジメさんや新井さんとは違う楽しさが、伊奈川さんとの会話にはある。
 気がつけば、あっという間にそれぞれの家の扉まで来ていた。
「本当にありがとうございました、先生」
「いえいえ。こちらこそ。じゃあ、また」
「はい、先生。また」
 
 *
 
『なんだか小説みたいですね!お隣さんが自分のファンだなんて』
 画面の向こうの新井さんが目を輝かせた。

「私も驚きました」
『あー、なんだかそれで一本いけそうですねぇ』
「かなりテイストは違いますけど、アイディアは出ましたよ」
『拝見します』
 昨日の夜にまとめた資料のデータを新井さんへ送信した。

「和風ホラーの恋愛ものなんですけど」
 無言な新井さんの真剣な表情。この瞬間はどれだけ回数を重ねても張り詰めた空気を肌で感じる。

『なるほど……今回は王道なテイストですね』
「『呪縛の男』と比べると、そうかもしれません」
『水野先生、BLの時も王道と少し違う話を書かれてたので、驚きました。でも、王道なテイストでもかなり面白そうですね!』
「ありがとうございます」
『この、お嬢様を因習から守るために相手の男性が因習を模した殺人を犯すようになる設定……切ないけど、盛り上がりますね』
「あえてミステリ要素がない方が殿方側のやるせない気持ちも明確に伝わるかと」
『うーん、読んでみたいです……。次はそのお話でいってみましょう!』
「お願いします」
『とりあえず、三話まで……プロットでいいので考えて欲しいです!そうですねぇ……二週間でどうでしょうか?』
「大丈夫です」
『うーんと、二週間後の……同じくらいの時間でもいいですか?』
「はい」
『では、二週間後に!今日はありがとうございました、先生』
「こちらこそ。ありがとうございました」
 打ち合わせの画面を閉じて、椅子の背もたれに寄りかかる。

「ふぅ」

 なんとかなりそうだ……。
 あれもこれも伊奈川さんのおかげだ。感謝しかない。

 最後はどうしようか。
 好きになった相手を因習から守るために殺人を犯した殿方。最後はやっぱり……。
「心中」
 ……いや。
「お嬢様だけ生き残る」
 ……だったら、心中の方がいい。心中ラストの構想でいこう。
 作業前の煙草を吸うために、台所へと移動した。

 *

 パソコンの時計を見ると、すでに十八時を回っていた。
 流石にお腹がすいた。

 長時間同じ体勢で作業していたおかげで、肩や腰が痛い。
 散歩がてら外食でもしようか。

 一話と二話のプロットはすでに完成している。三話のプロットを明日に回してしまっても問題はない。
 寝室に移動して、ベッドの上に放っておいたジーンズに履き替え、備え付けのクローゼットから黒の長袖のトレーナーを取り出した。

 もう暖かいし、上着はいらないか。
 髪は下ろしたままでリビングに移動し、作業机の上に置いてあるスマートフォンをジーンズのポケットに入れ、台所へ移動した。
 煙草とライターを掴み、ジーンズのポケットに入れる。
 玄関の扉を開け、廊下に出た。

「あ」
 鍵をかけながら、声の方を向くと伊奈川さんが立っていた。
「こんばんわ、先生」
 にこりと笑う伊奈川さん。朝方に会った時よりも身なりがさらに整っていた。
「お仕事帰りですか?」
「はい。先生は?」
「散歩がてら外食をしようかと」
「そうなんですね」
「よければ、一緒にどうですか?」
「えっ」
「引越しのご挨拶と声をかけてくれたお礼ということで」
「いいんですかっ!?ご一緒しても!?」
 伊奈川さんの嬉しそうな大声が廊下に響き渡った。
「もちろんですよ」
「……生きててよかったです……」
 伊奈川さんは、両手で口を覆って呟いた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい!!ぜひ!!」
 伊奈川さんと肩を並べて、エレベーターへと移動した。

 *

「本当にご迷惑じゃないですか?」
「全く」
 先日新井さんと来た時と同じ席に案内された。同じように壁際のソファに腰かける。

「お好きなのどうぞ」
「えっ、あの……」
「お構いなく」
 目を丸くした伊奈川さんは、手元のメニュー表と私の顔を交互に見た。
「私、そのっ……ちゃんと自分の分は自分でっ」
「越してきたのは私なので、伊奈川さんが気にする事はないですよ」
「……次の新刊、十冊ほど買わせていただきます……」
「ははは。ありがとうございます」

 この席では吸わないでおこう。
 確実に伊奈川さんは煙草は吸わないタイプだろう。もしかしたら、喫煙行為自体あまり良く思っていないかもしれない。
 こればっかりは気を遣わないわけにはいかない。
 顔も知らないファンではなく、マンションのお隣さんという近しい存在である伊奈川さんとは仲良くしていきたい。

「水野先生」
「はい」
「一服されないんですか?」
 え?
 どきりと心臓が跳ねた。
 な……なんで……?
「私、鼻が効くんですよ」
 伊奈川さんは微笑みながら小首を傾げた。

「冗談です」
 依然と微笑む伊奈川さんとは対照的に心臓が飛び出してきそうなほど脈打っている。
「先生の作品、毎回喫煙者が出てくるので。もしかしたら、先生も吸うのかなって思ってたんです」
 ……そういうこと……。
 大きなため息と同時に首が前に垂れた。

「先生?」
「お構いなく……」
 驚きと申し訳なさに項垂れると同時に心の底から嬉しくなる。
 ものすごく読み込んでくれてるんだな。
 作家というものは自分の経験や思うこと、自分の好きなシチュエーションなんかを作品の土台にする。土台にしたものを細かくして、地の文、セリフ、仕草、独白……様々な場面に散りばめている。

 とはいえ、必ずしも散りばめたもの全てが自分の思った通りに届くことは少ない。大半は気が付かず、登場人物同士の絡みに目が行きがちだ。別にそれはそれで楽しみ方のひとつとして成立しているとは思う。
 ただ、書き手としてはもう少し踏み込んだところまで読んでほしいというのが本音だ。

「先生、お待たせしてすみません!頼むもの決まりましたっ」
「はい」
 とても気分がいい。

 * 

「あの、伊奈川さん」
「はい」
 私は食後のコーヒー、伊奈川さんは食後のミニパフェに手をつけている。
「つかぬことを伺っても?」
「もちろんです!」
「どうして、そこまで私の作品を好きになってくれたんですか?」
 単なる興味と淡い期待を込めて聞いてみる。
「……特にBLの方……」
「……」
 パフェのスプーンを紙ナプキンの上に置き、ゆっくり息を吸って、伊奈川さんははっきりと答えてくれた。

「ハッピーじゃないからです」
 伊奈川さんは真剣な表情と声音で続ける。
「ハッピーだけじゃ満たされないからです」
 この人……。
「なんだかよくわからなかったですよね……変なこと言ってすみませんでした」
「いえ、よくわかります」
「……」
 そう。『呪縛の男』の主人公……ハジメさんのように。
 幸せなだけじゃ救われない人もいる。
「わかります、すごく」
「……」
 伊奈川さんの唇が微かに動く。ただ、声が小さくて聞き取れなかった。

「今、なんて」
「あっ、いいえ!なんでもありませんっ」
 正直、伊奈川さんはそんなふうに見えないけどな。
 話しかけてきてくれた時から、明るくて素直な印象だったし、きちんと思ったことや感じていることを話してくれる。
 人は見かけによらない……か。
「……」
 本来の伊奈川さんは、どんな人なんだろう。

 * 

「ありがとうございました。先生」
「いえ、こちらこそ」
 お互いの家の扉の前に立ち、向かい合って声を掛け合う。
「また都合が合う時にでも」
「はいっ!」
「じゃあ、また」
「はい、おやすみなさい。水野先生」
 お互いに手を小さく手を振り合っている間に扉が閉まった。暗闇が視界を包む。

 廊下の電気をつけないまま、手探りで壁を伝い、台所へ移動する。
 壁のスイッチを押すと、蛍光灯の明りが台所を鮮明に浮かび上がらせた。
 よく見える。
 煙草に火をつけ、咥えた。

『幸せな話だけじゃ、嘘だらけになる気がするよ』
『ハッピーだけじゃ満たされないから』

 〝幸せ〟という言葉を細かく噛み砕いた時に派生する言葉はなんなのだろう。これについての正解は多分人それぞれ。明確な答えなんてものはない。導き出すことは不可能だ。
 〝幸せ〟は人によって違う。曖昧だから、自分の信じる〝幸せ〟が人にも通じると無意識のうちに考えるようになってしまう。
 結果、〝幸せ〟を見失い、迷子になって苦しむ人が生まれる。
 根本的な問題は、多分世界から争いが無くならないのとよく似ているのかもしれない。

「……」
 私がこう考えるようになったのも、やっぱり中橋ハジメという人物に出会って、一緒になったことが大きい。
 私がハジメさんと一緒にいた期間は約一年と半年ほどだった。たったそれだけの期間で、いわゆる人間の本質を教えられた。
「……」
 〝幸せ〟は人を豊かにする反面、人を壊すものでもある。
「……偶像、か」
 だから、私は〝幸せ〟ではない話を書いている。
 
 *

「……」
 真っ白な空間に私は一人で立っている。
 夢か。
 一応、首を回して、辺りを見渡してみる。
 特に何にもない。
 眠る前にも穿いていたジーンズのポケットを探ってみる。特に何も入っていなかった。
 流石にないか。というか、夢の中でも手癖で吸おうとした……。
 そう思った瞬間、目の前に霧のような煙が立ち込める。煙の奥に、ぼんやりと人影が浮かんできた。

「……」
 よく目を凝らしてみる。影は二つあるように見えた。

 何してるんだあれ。
 さらに目を凝らしてみる。

 あれは……伊奈川さん?
 綺麗な黒髪を揺らしながら、腕を上下に振っている伊奈川さん。

 ……ん?
 伊奈川さんと認識したことで、音も聞こえるようになってきた。

 もしかして…。
 何か柔らかいものを貫くような音。

 伊奈川さん……?
 声をかけようとしても、喉が詰まっているせいで声が出せない。
 振り上げた伊奈川さんの手にべっとりと付着した赤い液体。

 ……人を殺してる。

「っ!!」
 肩が大きく上下に動くたびに、息が詰まりそうになる。
 べっとりとした汗が、体に服を密着させる。
「……はぁ…はぁ……」

 なんだったんだ、今の……。
 思い出すだけで、手が震える。

 伊奈川さんが……あんな……。
 相手の姿は全く見えなかった。

「……」
 呼吸がようやく落ち着き始めた。少しずつ息が楽になる。

「……」
 言葉が出ない。
 夢であっても、あんな光景は初めて見た。

「……」
 あんな夢を見た理由も私にはわからない。

「……」
 少なくとも、今日はもう眠れない。


一話→https://note.com/tony_dc1212/n/ne41d7998a2f3

お読みいただきありがとうございました!
本編は4月後半にアルファポリス、pixivにて公開予定です

よければ、マシュマロにて感想いただけると嬉しいです。


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