東京の16歳が見た3.11
3.11の経験は、当たり前のものではないと知り。
2月、関東や東北で大きな地震が直後、愛知出身の友人と会っていた。
友人「長かったよね、こないだの地震」
私「うん、地震酔いになった。」
友人「地震酔いって何?」
と言われ、私は3.11のとき、余震で地震酔いによくなっていた話になった。友人は3.11が起きたときは京都にいたらしく、ニュースのなかの出来事だったようだ。
3.11を直接体験してない人もいるから、これは書いておかなければ、と思って筆を取っている。
ふと思い出しのは「東京の脆弱さ」
異なる体験をした人もいるだろうけれど、3.11で16歳の高校1年生が東京で経験したことを書いておく。
一番感じたのは、「東京の脆弱さ」だった。
試験休みで、私は家に一人でいた。予備校へ行こうとしたときに揺れがきた。大きかったけど普通の地震かなぁと思って家を出ようとして電車を調べたら、電車が止まっている。
急いでテレビをつけると、避難勧告のニュースたち。LINEが普及し使い始めたのは2013年春くらい。当時はメールと電話。でも、回線が混んでて家族誰もつながらないので、帰りを待つしかない。
津波の映像も、原発事故の様子も、一人でテレビで見た。世紀末のようで、それはそれで怖かった。幸い私の家も家族も無事だったものの、都内でも家の棚や引き出しがぐちゃぐちゃになった友人もいた。
父親はたぶんオフィスから歩いて帰ってきたのかな。「帰宅難民」と報道されていた。渋谷駅とか人で溢れかえっていた。
部活で学校にいた子は、電車が止まって帰れないので学校に泊まっていた。熱血だった教頭が隣町から歩いて来たって話も聞いた。メールが通じないので、TwitterやFacebookで友だちの安否をとにかく確かめていた。
終業式もなく高2になった。原発が危ないからと、急遽帰国したベトナム人の同級生もいた。もちろん会うこともなく。
計画停電で、しばらく最寄り駅まで電車が走らなかった。新宿から急行で20分くらいの場所なのに。
夏になっても、限られた電力でみんなが生活するために、エアコンは消しましょう、電気は消しましょう、電車の本数は減らしましょう(?)、とテレビやポスターで言っていた。「計画停電」「計画停電」と言われていた。
私の家の地域は大丈夫だったけど、少し郊外の地域は対象だったと思う。東京で私が暮らしている電力は、フクシマが支えてたんだと知る。
節電の意識、当時はあったが今は薄れてつつある。あのとき出来たんだから、今も出来るはず。
スーパーに物がない
「帰宅難民」「計画停電」に続き、一番身近に感じたのは「スーパーの品薄」だった。野菜も肉もカップラーメンもお菓子もなかったんじゃないかなぁ。
交通網の麻痺で物流が滞っているのに、物が少ないから、余震への備蓄から、と物を買い占める。お一人様2点まで、とかよくあった。
初めて見るマイナーなお菓子を母親が買ってきたのだけ、すごい鮮明に覚えている。そのくらい、スーパーの棚が空だった。
その事実を思い出したとき、四角大輔さんが自給を提案するのがすごい腹落ちした。
未知のウィルスが来ても、物資がきているから私は東京で物を買うことができるのだ。
もしまた土砂崩れで地方から野菜が運べなくなったら、電気が足りなくて電車が走れなくなったらー。
東京は、災害にあまりにも脆弱だーー。どこにも行けないし、食材も電気も手に入らない。
もう10年経つ。すっかり震災前の姿になってしまった東京の生活は、あれから想像以上に変わってない。
あんな世紀末を見たのに、原発は今もある。
その後、私が地方の大学を選んだのは、3.11で東京の暮らしにギモンを持ったからでもあるんだろうなぁ、と何となく先日思った。
コロナよりも喪に服す雰囲気が漂っていた当時、私は『花より男子』の全巻をただ読み返すくらい。どうにもやるせない気持ちになって、募金活動を始めた。
120万円の小銭は本当に本当に重かったし、自分が動けば何か力になる、と感じた経験でもあった。
ボランティアへ訪れて
宮城県出身の先生にお願いして、2012年、高校のボランティア部を通じて、宮城県亘理町を何回か訪問した。
瓦礫も壊れた駅も見た。仮設住宅で仲良くなったおばあちゃんは、数年後に訪れたら新築の町営マンションに引っ越していた。
当時、車での訪問だったのだが、放射線の身体や妊娠への影響が心配されていたので、福島では降りなかった。
カトリックの学校だったのでシスター(修道女)も同行したのだが、帰り道に一人だけ福島で降りたシスターがいた。力強い彼女の後ろ姿が、妙に印象に残っている。
その後も高校では訪問を続けていて、私の卒業後、生徒たちで携帯トイレを製作して賞を受賞している。
未来の後輩のためになったのなら、先生にうるさくお願いし続けてよかったなぁと思う。
2日前に初めて知った、避難所の事実
震災から10年経って、初めてちゃんと知ったことが1つある。「避難所の性暴力」だ。
1995年の阪神・淡路大震災でも問題になり、女性たちが声を上げていたという。
1995年って、26年前です。当時生後2か月だった私は、いま働いています。でも、この問題を知ったのは2021年で数日前の国際女性デー。
2016年に熊本地震が起きたとき、避難所に行った友人もたくさんいた。被害までいかなくとも、避難所で嫌な思いをしてたかもしれないんだと初めて思った。
何なら学校の防災訓練で教えた方がいい。避難所では暴力の危険もあると、周りの女性や子どもにぜひ伝えてほしい。
このおっさん社会の日本では、メディアも政治も、男性中心で作り上げられてきたから、性暴力や性被害が報じられてこなかったのかなぁとも思う。
これが女性首相のニュージーランドだったら?フィンランドだったら?とつい思ってしまう。
見落としがちな防災用品
防災セットや非常食はもちろんですが、コンタクトの方は、メガネやコンタクトケア用品の備蓄も忘れずに。
私は3.11のときコンタクトだったのですが、余震が多かったので備えでメガネをいつも持ち歩いてました。
災害時にいつも通りの視力で過ごせない大変さは、視力が悪い方なら想像しやすいと思う。
10年経ったけど、私の3.11の経験から言えるのは、あらゆる都市機能の脆弱さ、災害時の性暴力の可能性、コンタクトの方への防災の3つです。
万が一のときのために、備えてください。
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