みんなちがってみんないい。障害は個性。
って、よく言いますよね。今は、本当にそう思います。
っていうか「障害」っていう言葉もなんか釈然としないです。それ自体が、
自分は障害がないと思っている人の価値観で作られた概念のようで。
でもね、「お子さんに障害がありますよ」って言われてね、
「そうですか、それは個性ですね」なんて、超ポジティブ変換できる人います?
友達の子供だったら言えますよ。本当にそう思って言えます。
友達に子供の障害の話をした時も実際にそう言われました。
ありがたいと思う反面、
「自分の子じゃないから、そんなこと言ってられるんだろうな」
なんて、ちょっと性格の悪い事も考えてしまいます。
当人じゃないと結局、わからないですからね。仕方ないです。
これまで子供の障害の告知を3回受けてきましたが、やはり初めての告知の時の
気持ちは今でも忘れません。
「お先真っ暗」
この世の流れから突然、放り出されたような気持ちになりました。
これから先、どうするんだよ。
親が先に死ぬのに、私たちが死んだらどうするんだよ。
まずは真っ先に将来の不安。
で、次にどうやって育てていくのか、将来と将来までの過程の見えない不安。
学校はこのまま通常級?それとも個別級?
中学校はどうするの?高校は?なんか特別支援学校的な?え?何それ。
仕事は?自立は?結婚とか、孫は無理か・・。
いわゆる普通の希望や期待は捨てなきゃいけないんだ。
で、これ、どうやって親に言うの?初孫なのにがっかりするのかな。。
先生にも言わなくては、、、どうやって?
という現実的な話。
いろんなことがぐるぐるしました。
医者には、
「誰かのサポートを受けて生きていくことになると思います。」と。
私はなんかパニックになってつい医者に言ってしまいました。
「そんなこと言われたって、もし私たち両親が明日死んだらどうするんですか?」
「その場合は18歳までなら施設で生活することになります。」
「じゃそれ以降なら?」
「今のところサポートできる仕組みはありません。」(12年ほど前)
愕然としました。
ただ、ありがたいことに旦那の両親は、父親が障害者の就労移行支援で管理の仕事をしており、母親も保育士をしていてとても理解がありました。というか、気付いていたと。自分の両親もショックは受けていましたが、優しく受け止めてくれました。
でも、友達には言えませんでした。どちらかというと、わりと成績の良かった私は、「あなたの子供なら出来のいい息子なんじゃない?」とか言われて、、
何も言えなくなりました。
「神様は乗り越えられない試練は与えないよ」とか誰かに励まされて言われた気がしますが、
「そんな試練、頼んでないし、いらないし。普通でいいのに。」
って、素直に入ってこなかったです。
「普通」ってなんだろう。
普通に、ってどういうことだろう。誰が決めたんだろう。
どこに基準があるんだろう。
でも、子供を育てていくうちに、子供なりの成長もたくさんあったし、
「その子なりに、その子らしく、この子の普通はこの子のもの」
と思えるようになってきました。
「みんなちがってみんないい」という金子みすゞさんの詩を息子が国語の宿題の音読で読んだ時、以前は「綺麗事のひとつ」として捉えていたドライな私でしたが、
息子が読むその詩は、とてもたどたどしくてもどかしい音読だったけど、
何だか涙が溢れてきました。
息子の訴えのように感じて、ストンと私の中に落ちました。
「これでいいのだ」
と思いました。
その後、次女の告知を受けましたが、初回の告知の時のようにぐるぐる考え込むことはなく、じゃ、対応変えていかないといけないね、という感じの、冷静な反応となりました。
ただ、長女の場合は二次障害になっていたので、自分たちの検査を受けさせるタイミングの遅さに後悔と反省ばかりでした。この件についてはいずれ詳しく書きたいと思います。
今は、我が家なりの「普通」の中でいろんなことが回っています。
いわゆる一般的な家庭ではありえない状況で家族5人暮らしています。
でも、それなりに毎日笑ったり、喋ったり、怒ったり、言い合いしたり、でも、
一緒にご飯を食べて、それなりに歩んでいます。
それでいいのだ、と私は思っています。
多くの人の考え方や常識に合わせる必要などないし、いわゆる「普通」に惑わされなくてもいいと思います。特にうちは、世間で言う「普通の子供」は一人もいませんし、旦那もおそらくADHDかと思います。そうなってくると、私の方が普通じゃなくなってくる訳です。
みんなそれぞれのスタンダードがあります。
少なくても、我が家はそれを尊重したいと思っています。
いろんな事があって、そんな風に思うようになりました。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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