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浮き上がる言葉


何度か言葉には重量があると言ってきたけど、荒れた学級に1時間入ってみて感じるのは、教師の言葉に重さがないこと。教室の子どもが水だとして担任の言葉は油のように子どもの頭の上を滑っていく。磨き上げてきた質量ではない。これまでなら何とかなってきたのだろう。でも、この状況において質量の低さは致命的でもある。言葉の質量が大きくならない限り、子どもの荒れは収まらないのかもしれない。
ところで言葉の質量とは何だろう。それは少なくとも内容でない。同じことを初任者と僕が言ったのではまるで違うものなのだ。それは経験や思考に裏付けされた自信とか信念とかそういうものなのかもしれない。それは、恐らくだけど、言葉の強調やスピード、そしてそれを語る教師の表情をも絡めとりながら、その質量を増していくのだろう。
僕を知っている人は、僕の声は子どもに通りにくく、ボソボソした声質だということを知っていることだろう。歯切れも悪いことを知っていることだろう。でも、それが僕の武器でもあるのだ。僕はそのボソボソした声質だからこそ、一言一言により大きな質量を与えられる。僕が饒舌にペラペラと語っている時は言葉が軽く、思考が足りていない時なのだ。

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