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エビデンスという「怪しさ」


医学界ではよく使われ、最近では教育でも使われるけど、医学界でも、教育界でもこの言葉は好きになれない。

医学ではある意味、割り切り方がはっきりしている。例えば抗がん剤で「この薬は70%の人には効果がある」となれば、大ヒットする画期的な薬となるけど、残りの30%人には効果はないわけで、その30%はある意味「しかたない」と割り切ってしまう。もちろん、効かなければ別の薬で試すわけだけど、人の体、ましてや免疫機能はとても多様で複雑なので、そう簡単ではない。効果のあるという70%でも、その効き具合や副作用はさまざまなはずだ。本当はその人にあったその人に効果的な薬や治療をするのが正しいのだけど、エビデンスという言葉は、どこか「しかなない」が含まれている気がする。

教育はどうだろうか、多くの教育データはというか、ほとんどの教育データは、相関関係ではあるけど、因果関係ではない。数値は相関しているけど、それが因果かというと、その根拠はない。でも、多くの場合、結果のエビデンスとして因果から外れた、都合の良い捉え方をされていることが多い。不登校のデータなどはその典型だ。これはその道の専門家でもだ。

一流の医師は何か。データを眺め、エビデンスで患者に対応するだろうか。僕が診察を受けた一流の医師は、それが例え風邪であろうと、僕の肌や首や腕や目、触った感触や温感、状態を丁寧に捉える。その時、その医師の頭の中は数値だろうか。

エビデンスを数値で語る人はとても怪しい。エビデンスとは、数値の分析ではなく、僕はむしろ経験や感触というものに近いのではないかと思う。そして、これまでの経験や感触をどう整理し、部類分けし、その実態と関連づけるかの蓄積。それは教育でも同じなのではないかと思うのだ。データを読み間違えるというのはつまりこういうことだ。

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