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夢幻鉄道

* 1 *

「キミのことを必ず幸せにします。」
ボクは、図書館で働くキミに恋をした。
にこにこと明るい笑顔に恋をした。
キミはおとなしくて、体が弱かったけれど、たくさんの本を読んで勉強していたから、ボクの知らないことを何でも知っていた。
ボクは、キミと話がしたくて、わざとたくさんの本を借りたのだ。
やがてキミとボクは恋人になり、手を繋いで色んな場所に出掛けた。
神社やお寺に行く時は、物知りなキミが先頭に立って案内してくれた。
ボクも嬉しくて、今日起こったこんなことや、明日起こるあんなことをキミに話して聞かせた。
キミはいつもにこにこして、すごいね、と言って聞いてくれた。
でも、それから一年が経った頃、キミは疲れたり、落ち込んだりすることが多くなっていった。
ボクがいくら手紙を書いても、ほとんど返事が来なくなってしまった。
遊びに行く約束も、いつも叶えられないままになっていた。
ボクは、キミとの約束を楽しみにしていた裏返しで、キミを責めるようになってしまった。
「返事もくれないのはあんまりだよ。」
「ごめんなさい。また約束を破ってしまいそうだから、しばらく会わないでおきましょう。」
そんな返事が届いて、ボクは、キミとの別れの時が近づくのを感じた。
慌てて手紙と花を贈ったけれど、やはり返事は来なかった。
キミと会って話をすることもできず、焦る気持ちばかりが大きくなっていく。
キミとボクは、このまま他人同士に戻っていくのかも知れない。

* 2 *

古都を走る路面電車は、民家をすり抜け、お寺をすり抜け、曲がりくねった線路を進む。
人に道を譲り、車には道を譲られ、レンガのトンネルを抜ければ、踏切の向こうに青い海が煌めいている。
そんな景色が気に入って、ボクはこの町で暮らし始めた。
しばらくすると、駅の近くで見つけた図書館に通うようになる。
静かに時間が流れるその図書館で、ボクはキミに出会ったのだ。
近頃、図書館に行かなくなったボクは、今夜も駅前の喫茶店で手紙を書いていた。
「しまった、もうこんな時間だ。」
すっかり夜が遅くなってしまった。
キミへの手紙を書いていると、楽しかった思い出が次々とよみがえってくるのだ。
最終電車はもう行ってしまったかも知れない。
ボクはコーヒーカップを片付け、駅への道を急ぐ。
横断歩道を渡ると、駅舎の灯りはすでに消えていたが、改札の向こうには電車が止まっていた。
紫の着物を着た人が、電車に乗り込んでいくのが見える。
「間に合うぞ。」
電車に駆け込もうとホームを走っていると、脇にたくさんのアジサイが咲いているのが見えた。
そう言えば、去年の夏、キミとこの町の花火大会に来た日。
キミと待ち合わせをした小さな神社にも、手毬のようなアジサイが静かに咲いていた。
屋台で買ったラムネ。
溶けて落ちてしまったボクのソフトクリーム。
思い出の中のキミは、いつもにこにこ笑っている。
その花火大会で、ボクたちは初めて水中花火を見た。
急いで走る船の上から、花火を海に投げ入れていくのだ。
船が走り去った後、大きな音とともに、海の上で花火が扇のように広がった。
「まるで、海に咲くアジサイみたいだったな。」
そんなことをぼんやり考えながら、ボクは、行き先も確かめずに電車に乗り込んだ。

* 3 *

花火大会が終わった後も、ボクたちは砂浜にふたり並んで座り、しばらく海を眺めて過ごした。
砂浜には灯りがひとつもなかったから、海と夜空の境界ははっきりしなかった。
「素敵な花火だった。また来ましょうね。」
その時、キミの後ろの空で、きらりと流れ星が流れるのが見えた。
今だ。
そう思ってボクは、用意していたアクアマリンのネックレスを鞄から取り出し、キミにプレゼントした。
キミはとても喜んでくれて、ボクはほっとしたんだ。
「ずっと一緒にいよう。」
あの時の言葉は、もう叶えられないのかな。
がたん、と電車が揺れ、ふと顔を上げた時、ボクはようやく異変に気がついた。
おかしい。
電車はいつまで経っても駅に停まる気配がないし、窓の外は真っ暗で、どこを走っているのかも分からない。
そして、奇妙なことに、電車の中に数人いる乗客はみんなお面をかぶっていた。
ボクは、そっと辺りを見回す。
鬼のお面、烏天狗のお面、翁のお面、ひょっとこのお面。
みんな紫の着物を着て、頭巾をかぶっている。
この人たちは、一体どうしたのだろう。
この電車は、一体どこに向かっているのだろう。
車掌に声をかけることもできずに、ボクは混乱していた。
とにかく、次の駅に着いたら降りてしまおう。
歩いてだって帰れるのだ。
それから、どれくらい電車に揺られただろうか。
電車の中は、不気味なくらいに静かだった。
誰も何も話さず、物音ひとつ立てず、みんな背筋を伸ばして座っている。
ボクもじっと動かず、何も見えない窓を見つめ続けた。
ようやく電車が停まると、ボクは一目散に電車を降りたが、そこは駅のホームではなかった。
ぼちゃん、と足が水に浸かった。
「海だ。」
目の前の砂浜では、無数のぼんぼりが赤くゆらめいている。
電車からは音もなく彼らが降りてきて、立ち尽くすボクを追い抜き、砂浜に上がっていった。
ぼんぼりに照らされた道が奥に続いていて、赤い大きな鳥居をくぐって進んでいく。
彼らの姿を目で追っているうちに、電車は行ってしまい、後にはボクだけが残されてしまった。
ついて行くしかない。
ざぶざぶと砂浜を歩いてボクも鳥居をくぐり、石畳の道を進んだ。
池をまたぐ太鼓橋の上から広い境内を見渡すと、奥に建物が見える。
一体、ボクはどこに来てしまったのだろう。
どうやって帰ればいいのだろう。
赤いぼんぼりの灯りが、僕には恐ろしかった。
そして、何より恐ろしかったのは、鳥居も、石畳の道も、太鼓橋も何もかも、"半分"しかないことだった。

* 4 *

この世界はどうなっているんだ。
周りを山々に囲まれ、手前に海をのぞむ地形だったようだが、真ん中を通る石畳の参道を境にして、世界が真っ二つに割れ、半分がなくなってしまっている。
ボクの足元では、池の水が滝のように落ちて、奈落の闇に消えていった。
右側だけが残った太鼓橋を渡ってしまうと、ボクは建物を目指して歩く。
境内では、鬼のお面たちが不安そうな様子で、恐る恐る奈落を覗いていた。
ぼんぼりの灯りに導かれ、やはり右側だけが残ったその建物に近づいたボクは、目を疑った。
「図書館だ。」
それは、ボクが通った図書館だった。
中もそっくりそのままだ。
しかし、ボクがよく知る図書館とは違い、書架の間を歩くのは烏天狗のお面をつけた人たちだけだったし、左半分は真っ暗闇だった。
もう半分の書架は、建物と一緒に奈落の底へ落ちてしまったのだろう。
今もまた、一冊の本が奈落に吸い込まれていく。
ふと見ると、お面をつけていない人がいることに気がついた。
ボクと同じように、この世界に迷い込んでしまったのだろうか。
早足で追いかけ、声をかけようとしたところで、ボクは足を止めた。
いや、違う。
信じられないけれど、あれはボクだ。
書架を見上げ、本を選ぶボクがいる。
顔はぼやけていてよく見えないが、あの後ろ姿は確かにボクだ。
何冊も本を抱え、カウンターに持っていこうとしている。
そうだ。
こうした場面が、幾度となくあったことを覚えている。
キミと仲良くなりたかったボクは、本を借りてはカウンターの奥に座るキミに話しかけた。
キミが笑ってくれると、ボクの心は弾んだ。
しかし、今、目の前のカウンターでは、おかめのお面と談笑するボクがいる。
もしかして。
ボクの頭に、ひとつの考えが浮かんだ。
でたらめな話だけれど、そう考えれば辻褄が合う。

* 5 *

ふう、ふう。
図書館を出たボクは、どこまでも続く石段を登っていた。
右側だけが残った石段は、とても大きな石で組まれていたので、胸まで足を上げ、両手を使って体を持ち上げないと登ることができない。
世界は徐々に奈落に向かって傾いてきているようで、転げ落ちないように注意しなければならなかった。
どくんどくんと鼓動する心臓の音を聞きながら、ボクは後ろを振り返る。
石段の始まりには大きな銀杏の木が生えていたが、もうそれよりも高いところにいる。
さっきの図書館のベランダで、翁のお面たちが石段の上を指差していたのだ。
彼らが指差す先には、お寺にあるような山門が見えた。
もちろん山門も半分だったが、目を凝らすと、もう半分の山門が見えた。
山門だけではない。
そこには、奈落に落ちたと思っていたもう半分の世界がぶら下がっていた。
山門同士は完全には離れ離れになっておらず、辛うじて、世界はまだ繋がっているらしい。
そして、山門の屋根の繋ぎ目、この世界の繋ぎ目にきらりと青い光が見えたような気がした。
ボクは、キミがそこにいるような気がしたのだ。
ぼんぼりの灯りを頼りに石段を登り切ると、山門の足元では、祭りの屋台がいくつも出ていた。
ひょっとこのお面たちが、イチゴのかき氷やリンゴ飴を手に持ち、屋台から屋台へ渡り歩いている。
ああ、この光景も覚えている。
「きっと、上だ。」
ボクはキミを連れて、海の近くのお寺で昔々から続く祭りに遊びに行ったことがある。
祭りの日は特別で、山門の楼上が公開される。
その大きな山門に上ると、真っ赤なタ陽と、タ焼け色に染まる海岸を一望することができた。
下からは、屋台に集まる人々の声と、お寺の本堂で唱えられている念仏が聞こえてきた。
ボクは、狭くて急な階段を上る。
見ると、やはりその時と同じように、欄干に寄りかかって海を眺めるボクたちの姿があった。
ただし、ボクの顔はぼやけていて、そのボクの隣にはおかめのお面が立っていた。
「良い眺めだね。ほら、向こうに浮かぶ島まで見える。」
「うん。すごいね。」
「疲れたかい。」
「ううん、平気よ。」
キミは、金魚すくいで捕まえた二匹の金魚を見つめていた。
この祭りは、五百年前からずっと続いているらしい。
想像もできないくらいの、長い長い時間だ。
「一度、来てみたかったの。連れてきてくれてありがとう。」
「どこにだって連れて行ってあげるよ。」
あの時、キミはボクに向かって微笑んだけれど、その笑顔はどこか弱々しく見えた。
そんなふたりの後ろ姿を見つめていたボクだったが、その時、世界が一段と大きく傾いた。
慌てて欄干につかまる。
とうとう山門も離れ離れになってしまったのかも知れない。
そう思って見上げると、山門の屋根から、おかめのお面がボクを見下ろしていた。

* 6 *

ボクが山門の屋根によじ登ると、そこは周りの山々よりも高く、さっきまでいた図書館が豆粒のように見えた。
こっちの世界も大きく傾いていたので、下にいるひょっとこのお面たちは屋台につかまり、必死に体を支えている。
ぼんぼりも一斉に傾き、今にも奈落に吸い込まれていきそうだ。
山門に、あっちの世界がぶら下がっている。
まもなく、こっちの世界も奈落に引きずり込まれるだろう。
世界はふたつに割れ、何もかもが半分になってしまったが、ふたつの世界は山門のてっぺんで辛うじて繋がっている。
いや、繋がっていた。
今や山門も離れ離れになってしまっていたが、おかめのお面が立つ後ろに、青い光が見えた。
ネックレスだ。
ボクが贈ったネックレスが、あっちの山門とこっちの山門に引っかかり、まだ世界を繋ぎ止めていた。
ボクは、足を滑らせないように注意しながら近づき、おかめのお面の前に立つ。
おかめのお面は何も言わず、笑顔でボクを見つめている。
「やっと会えたね。」
返事はない。
「キミなんだろう。」
おかめのお面は笑顔のまま、やはり何も応えなかったが、それで構わなかった。
ボクが手を伸ばし、ゆっくりとお面を取ると、そこには、泣き腫らした目をしたキミがいた。
「疲れてしまったよね。」
キミは、ボクの目を見て黙っていた。
「心が疲れてしまったんだろう。」
キミは少し迷った後で、こくん、と頷いた。
その時、木が折れる乾いた音が響いた。
いよいよ支えを失ったあっちの世界が、ネックレスとともに落下を始める。
キミは振り向きざま、慌ててネックレスをつかんだ。
まだ、世界を繋ぎ止めようとしているんだ。
ボクは、キミの腕をつかむ。
「もういい。」
「駄目よ。世界の半分がなくなってしまう。」
「もういいんだ。」
「大切な本も、大切な思い出も失われてしまう。」
「もうキミには必要ない。半分なくなったって、まだ半分もある。ちゃんと心の中に残っているよ。」
キミの手から力が抜けるのが分かった。
「泣きたい時もあったのに、我慢していたんだろう。ボクに直してほしいこともあったんだろう。無理をさせてしまったね。」
「ごめんなさい。」
キミはぽろぽろと涙をこぼした。
「ううん。ごめんね。」
気がつくと、ボクも泣いていた。
そして、キミはネックレスをつかんでいた手を離し、ボクの手を握った。

* 7 *

「ここはキミの夢の中なんだろう。」
キミはまっすぐに海の向こうを見つめている。
「もう少しで朝になるわ。」
ボクたちは手を繋ぎ、ふたりで砂浜に座っていた。
今度こそ世界は半分になってしまったけれど、確かに安定を取り戻していた。
目の前に広がる海が朝焼けの空を映し、ボクたちはぼんぼりの中に入り込んだみたいだった。
海の上には、入道雲のように大きなアジサイが咲いている。
辺りが白み始めるとともに、周りの景色も、キミの体も、少し輪郭がぼやけてきたように思う。
この世界も、もう長くないようだ。
夢の世界が終わり始めている。
海の向こうから汽笛の音が聞こえてきた時、キミがこちらに顔を向けた。
「まだ言わないで。」
この手を解かなければならないことも、別々の道を行かなければならないことも。
「少し歩こう。」
ボクたちは、手を繋いだまま海岸を歩いた。
ほとんど何も話さなかったけれど、気持ちは通じていたので、話す必要がなかった。
光に包まれた汽車が海を滑ってやって来た時には、周りの景色は消えていき、キミは景色に溶け始めていた。
車掌が窓からボクを見て、乗りなさいという仕草で手招きをした。
ここまでのようだ。
振り返っても、図書館や山門はもう見ることができない。
握る手に力を込め、キミが言った。
「ありがとう。」
ボクは何度も頷いた。
ただ何度も頷き、手を解いた。
今まで、なんて幸せな時間だったのだろう。
ボクは、この世界を去ることに納得していた。
ただ、これからのキミを見られないことだけが悲しかった。
汽車のドアが閉まろうとする時、ボクはキミの目を見て言った。
「会おう。会って、ボクたち別れよう。」
時折り鳴り響く汽笛を聞きながら、ボクは光の汽車に揺られていた。
もはや線路はなく、汽車は空を駆けている。
山と海に囲まれたあの世界は眼下にあり、幻に包まれようとしていた。
その幻のような光の中で、キミとのたくさんの思い出がよみがえり、最後に煌めくようだった。
ああ、ボクの故郷にも連れて行ってあげたかったな。
美しい夜景の町なんだ。

キミからの手紙が届き、ボクたちは会って話をすることになった。
文面から、別れ話をするためだということはすぐに分かった。
ボクが駅前の喫茶店に着くと、キミはもうテーブルについていた。
微笑みをこちらに向けるキミの首元に、いつものネックレスはない。
アクアマリンの青い輝き。
別れよう。
ふたりとも、前に進むために。
「ボクが、キミのことを幸せにできなくてごめん。」



最後までお読みいただき、ありがとうございます。このお話は、キングコング西野亮廣さんの絵本「夢幻鉄道」をもとにした二次創作です。
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いつもお読みいただき、ありがとうございます。 「人生が一日一日の積み重ねだとしたら、それが琥珀のように美しいものでありますように。」