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ホテル・インレーの夢 第一章 イタリアへの新婚旅行

 窓を開けると乳白色をした朝もやが目の前に広がり、深い緑色をした広い畑がうっすらと透けて見えた。窓から入ってくる乳白色の朝もやからの空気は冷たく、その冷気が乳液のように肌に沁みこんでくるように感じられた。部屋の中にこもっていたもやっとした感覚が一気に消え去り、昨夜の陶酔感が体から抜けていった。
以前、同じ様な光景を見たことがあるなと思ったが、それがミャンマーのどこの場所であったのかを思い出すことは出来なかった。きっとアルバートさんと一緒に行ったどこかの土地だろうから、彼が起きてきたら聞いてみようと思った。静かな寝息を立てている彼が起きてくる様子はなかった。慌ただしかったこの一週間で疲れきっていたのだろうか、それともようやく窓の外が白み始めた頃になって私から離れて寝入った為だろうか。私はしばらく朝もやの中の光景をぼんやりと見ていた。

 涙がにじんできた。これまで彼と離れ離れになっていた期間に起こったことが、この朝もやの光景の中で思い起こされた。苦しかった。辛かった。信じられるものは何も無かった。絶望にさいなまされて、生きていこうという意欲が消滅した。耐えるという感覚も失われていった。ただ毎日、死人のように生きていた。死ぬこともできなかった。死のうという意欲も失われていた。

 寂しかったという感情が蘇ってきた。この5年間の諦観は、私にその感情を感じさせなくしまっていた。
彼に触れたくなってベッドに戻り、後ろから彼を抱きしめるように手を伸ばした。昨夜とは違う、もっと崇高な陶酔感が私の心に満ちてきた。体内にある全ての邪悪な体液が抜け出ていくような感覚がしてきた。

 「ねえ、もうそろそろ起きようよ。お腹が空いたよ」
彼の声がぼんやりと聞こえてきて、私は目を覚ました。彼は私が後ろから抱きしめたままの姿だった。その声はまるで小さな子が母親に呼びかけるように聞こえた。
「私は一度起きたのよ。アルバートさんが静かに寝ていたから私はもう一度つきあっただけ」
後ろから抱きついたまま、私はやさしく彼の後ろ髪に口をつけた。
「本当に?じゃあ、起きようよ」
「うーん、もうちょっとだけこのままがいい」
私は彼を後ろからぎゅっと強く抱きしめた。
「でも、ホテルの朝食は10時までだから、ソーミンが朝ごはんを抜いてもいいというのなら、まだ寝ていてもいいけれど」
「うーん、その選択肢はないわね」
私はそう言うと、彼の体の下からゆっくりと手を引き抜いて、窓の外に目を向けた。早朝に見た朝もやは既に消え去っていて、明るい陽射しの太陽が昇っているのが分かった。

 ホテルでフルーツが盛りだくさんの朝食を食べた後、私たちは街の中を歩いて見て回ることにした。
「ねえ、ここはどこなの?」
ホテルから外に出て石畳の坂道を歩きながらアルバートさんに尋ねた。
「えっ?アッシジだよ。もしかしてソーミンは認知症になってしまったの?ローマ経由でアッシジに行くって説明したはずなんだけれど、覚えていない?」
「違うわよ、ここがアッシジだっていうことは覚えているわよ。それに、認知症になるのにはまだちょっと早いかも。私が知りたいのはアッシジって何?っていうこと」
「良かった。ロンドンで5年ぶりに会った時にはあまり変わっていないなと思ったけれど、実は老婆になってしまったのかとちょっと驚いたよ」
「相変わらず馬鹿ね」
「アッシジはウンブリア州ペルジャ県の都市、人口は僅か2万人。そんな地理の教科書のような情報よりも、ソーミンは聖フランチェスコって知ってる?」
「知ってるわ。牧師になったものの誰も話を聞いてくれないから小鳥に説教を聞いてもらったという牧師よね」
「うーん、ちょっと何か違うような気がするけれど、まあそんな感じ。その聖フランチェスコが生まれたのがアッシジ。この坂道を登り切ったところに聖フランチェスコ教会があるんだ」
私達は5年ぶりにやっと再会することが出来たのに、会話の仕方が以前と全く変わっていなかった。私はいつもアルバートさんに喧嘩を売って、拗ねて、そして甘えて。アルバートさんは、いつも私を受け止めてくれて。この感覚は世界中の宝石を集めてくるよりも私には価値があるものだった。ミャンマーでコロナが発生して、クーデターが起こって、そして内戦が続いて、国が崩壊して、世界中から見捨てられ、今日まで5年が経過していた。その5年間、私はこの甘い感覚を忘れ、ただ死人のように毎日を過ごしていた。

 「ほら、ここからこの街を見下ろすことが出来るよ」
アルバートさんが示した坂道が180度曲がる半円の先っぽに立つと、私は腰までの高さしかない壁から下を覗き込んで見た。
「凄く綺麗ね。何回も屈曲して山を上るこの坂道はタウンジーの山に登るところみたい」
「あまり深く覗き込むと落ちちゃうから気を付けて」
彼はそう言うと私の腰に後ろから手を回した。
山の上にあり、城壁に囲まれ、外界と隔てられた都市の雰囲気が、シャン州のインレー湖と似ている。思い出した。朝、どこかで見た光景に似ていると思ったのはシャン高原だ。静寂な朝、湖から立ち上る水蒸気、三方を山に囲まれ、外界と隔絶された空間の中の高原が誰も訪れない、誰も寄せ付けないシャン高原にアッシジは似ている。
下には白いもやで朝には良く見えなかった畑が広がっていた。昨日特急列車を降りた駅から続いている茶色の道がまっすぐ緑の中を通っていた。とても綺麗だった。でも朝早くに見た白い朝もやの中の景色はもっと綺麗だった。きっと一生忘れない光景になるに違いないと確信している。道の反対側はホテルやお店が立ち並んでいる。一つひとつのお店は小さいが、窓から除くと観光客用のためだけでもなさそうなお店も少なくなかった。
「ねえ、このお店を覗いてみてもいい?」
私は食器を置いている小さなお店の中を窓から覗き込み、彼に声を掛けた。

 山の頂上に着くと、大きな広場の向こうに石造りの教会が見えた。
「あれが聖フランチェスコ教会。13世紀に建てられた教会で聖フランチェスコが葬られているんだ。その頃はね、ロマネスク時代と呼ばれていて、イタリアの各地にある巡礼地には修道院がたくさん作られているんだ」
「修道院っていうとミャンマーの僧院と似ているのかなと思うけれど、同じようなところなのかしら?」
「そうだね、内容的には同じようだと思うけれど、修道院の方がストイックな感じがするな。修道院は本質的には、俗世間と離れた場所で若い修行僧が禁欲的な生活をする場所として今日まで続いているけれど、ミャンマーの僧院はタッマドゥから攻撃を受けて今となっては跡形もないんだろう?」
つい2週間前にミャンマーを出たばかりだったが、今はミャンマーのことは考えたくなかった。タッマドゥによるクーデターに端を発し、民主主義を求める国民の抵抗とタッマドゥによる殺戮から暗黒と混乱に陥り、そして全てが崩壊したミャンマーのことを新婚旅行中に考えることなど、あまりにもロマンチック感が無さすぎる。朝、白い朝もやを見ながら流した涙を最後の涙にしたいと思った。

 「教会を覗いた後、坂道の途中にあったレストランでパウロに会うよ」
「えっ?パウロって、ローマ教皇のパウロ?」
「違うよ。ヨハネ・パウロ二世はとっくに死んでしまっているし、そもそも俺が教皇に会うなどありえないだろう」
「馬鹿ね、冗談よ。それよりパウロって誰なの?」
「パウロ・セラッティ。僕がミャンマーに初めて行った時に知り合って、それから親しくさせてもらった友人。彼は2008年にミャンマーを襲って10万人の人が亡くなったサイクロン・ナルギスの被害者支援の国際支援団としてイタリアからミャンマーに派遣されてね、その後、僕がソーミンと一緒に病院で働いていた時にはシャン州で農園を経営していたんだ」
「そうなの、知らなかったわ。アルバートさんからその人のことを聞いたことが無かったから」
「そうだね、あの時はあまり連絡を取り合っていなかったから。彼もミャンマーの女性と結婚して、農園事業を興して、なかなか忙しかった時だったしね」
「それでその人は今、アッシジに住んでいるの?だからその人に会うためにここに来たの?」
「パウロの農園事業の話は長くなるからちょっと今は端折るけれど、パウロもミャンマーで築いたものを全て失って、イタリアに戻ってお父さんの農園を継いだんだ。僕もイギリスに戻ってからパウロと連絡を再び取るようになってね。いい奴だよ。お互い、ミャンマーに夢と希望を持っていた」
その最後の言葉に、私の胸は少し痛んだ。夢と希望を私が失ってからまだ5年しか経っていない。

 坂の途中の小さなレストランで会ったパウロさんはジェントルマンだった。映画で見たオペラ歌手のように口元を髭で覆った大柄な人だった。
「何、お前ミャンマー人と結婚した?」
「そうだよ、これが新妻のソーミン」
「う~ん、そうか・・。本人を前にして言うのも何だが、ミャンマーの女性を嫁にすると大変だぞ」
パウロさんは私の顔をじーっと覗き込んで言った。
「そうか、大変か・・・。それで何が大変なんだ?」
「浮気が出来ない」
「何それ!?」
私はレストランの中であるにもかかわらず大声を出した。横でアルバートさんが困った顔をしているのが見ないでも分かった。
「だって、俺はイタリア人だぞ。死ぬまで美しい女性に恋をし続けるのがイタリア人だ。ところがミャンマーの女性は夫に絶対に浮気をさせない。お互い、正しいことをしているつもりなんだが、お互いが相手を正しくないと思っている」
「ははは。それは大変だな。でも俺の場合はどうかな。俺はイギリス人だからな」
「何それ!?」
私はもう一度大声を出した。
「でも、SNSでは伝えたが、改めて奥さんが亡くなられたことにお悔やみを申し上げるよ」
「有難う。でも、あいつが死んだのはクーデターが起こる前だったから。悲惨なミャンマーを見ずに死んだのは幸いだったかも知れない」
「シャン州ではコロナ病人を全く助けることが出来なかった。医者として本当に申し訳なく思っている」
「いや、お前はヤンゴンで手一杯だっただろう。それにお前もお兄さんをコロナで亡くして」
私は、なんとなく状況を理解できたような気がしたので、黙って二人の話を聞いていた。
「それでだ。サンタ・キアーラ修道院には話をつけてある。これから夕方までの時間ならいつでも訪ねていって良いそうだから、早速行こうじゃないか。お嬢さん、お腹は一杯になったかな?」
パウロさんが優しく私にウィンクした。イタリア人が死ぬまで恋をし続けるっていうのが、何となくわかったような気がした。

 私達はパウロさんの赤い小さな車に乗って修道院に向かった。坂道をゆっくりと下りる途中で、目につく建物を指さしながら、アッシジの建物の建築様式をパウロさんが説明してくれた。
 一つ目の特徴は、石で組み立てられたトンネル型の天井。その天井の下で左右から伸びたアーチが交差している形は幻想的なものだった。
二つ目の特徴は、厚い石の壁。アーチ型の天井は構造的に外に開こうとする力が働くので、その力を分厚い石の壁で受け止めようとしている。なんか、守られているような感じがして男性の力強い腕のようだなと思った。
三つ目の特徴は、小さな窓。当時はまだ構造技術が発達していなかったので、大きな窓を作ることができなかったそうだ。私は、大きな窓よりも小さな窓が好き。タッマドゥや、警察や、民間人のふりをしたスパイなどからの監視から逃れるために、窓を開けないという癖が私の身に沁みついてしまっている。
四つ目の特徴は、半円アーチ。今走っている道の上にでさえ、アーチがかかり、道の右側の家と左側の家を結んでいるのがときどき見えた。あのアーチを行き来して、作った夕飯をお裾分けしたりして。楽しそうな光景が目に浮かんだ。
五つ目の特徴は、柱の上の頭の部分。地主の貴族の紋章だったり、教会の印だったり、いろいろなデザインがあるらしいが、今いるホテルではどうっだたか、全く思い出せない。
六つ目の特徴をパウロさんが説明する前に、前の助手席に座っているアルバートさんに後ろから聞いた。
「ねえ、修道院に何の用があるの?」
「これからの人生を作るために行くんだよ」
「えーっ?私を修道院に入れるの?」
全く意味不明な回答に私が驚いて返事をした時、パウロさんが「さあ、到着だ」と言ったので、修道院を訪問する目的が分からずじまいにドライブは終わった。

クララ会ハーブ


 「シスター・クリスティーナ。今日はお忙しいところお時間を作って頂き、有難う御座います。これはイエスキリストの御用のためにお使い下さい」
アルバートさんはそういって一枚の小切手を封筒にも入れず、パウロさんの伝手を辿って紹介を得た修道女に手渡した。
「有難う御座います。どうかあなたにイエス・キリストの祝福がありますように。それでは、どうぞハーブ園をご案内致します」
シスターはあっさりと小切手を受け取るとそう言って、私達を修道院の裏に続く道を先に歩き始めた。
 ミャンマーで修道女を見たことがあった。その修道女はヤンゴンの病院の前のバス停に立っていた。その日は夏の暑い日だったので、修道女の着る丈の長い灰色の僧服が暑くて可愛そうだなと思ったことを思い出した。ハーブ園に続く小道には誰もいなかった。前を歩くシスターは無言で歩いている。静かな修道院の雰囲気の中でおずおずと歩いえいると厳粛な気持ちを抱く。
「おい、いくら献金したんだ?」
突然、パウロさんがアルバートさんに大きな声で聞いた。
「10万ユーロ」
「何!そんな大金を。フェラーリが買えてしまうぞ」
「修道院にはフェラーリは必要ないだろう」
「これからのミャンマーの人の人生を作るための献金だ。決して無駄にはならないはずだ」
何故かアルバートさんはシスターに聞こえるように大声で返した。シスターが慌てて小切手を取り出して見つめ直した。

 「キアーラは、アッシジの路上で聖フランチェスコの説教を耳にし、心を動かされました。その時キアーラは、両親が自分を裕福な男に嫁がせようとしていることを知って家を飛び出し、フランチェスコの指導を仰ぎました。清貧、貞節、従順という誓いを受け入れ、キアーラは修道女としての生活を始めました。キアーラはフランチェスコに帰依した者たちの最初のひとりとされています。キアーラはその後、フランチェスコ会の女子修道会クララ会を創設しました。キアーラは精神的な父と仰ぐ聖フランチェスコの助けと励ましを受け、「もうひとりのフランチェスコ」と呼ばれるほどになりました。このセント・キアーラ修道院はクララ会がキアーラの死後に建てた女子修道院で、1257年に完成しました」
シスターはハーブ園に入る前に小道の上で立ち止まり、私達に修道院の説明をしてくれました。しかし、それはイタリア語だったので、私は何も分からなかったが、アルバートさんがゆっくりとミャンマー語に訳してくれた。


 「では当院のハーブ園をご案内します」
私達の目の前には背の低い様々なハーブの野草が植わってある綺麗に整った畑が広がっていた。
「シスター、こちらのハーブ園にはここに書いてあるハーブはありますか?」
アルバートさんはそう言うと、1枚の紙をシスターに手渡した。シスターはその紙に書かれたハーブのリストを一つひとつ指で押さえながら確認すると「あります。ここに書かれている23種類のハーブの全ては、当院のハーブ園で育てています。それにしても、当院のハーブ園がこれらのハーブに特徴があることを良くご存じですね」
「ええ、偶然かも知れませんが、それらのハーブを使う目的は同じだと思います。私はこのハーブを使って荒廃したミャンマーの人達を支えていきたいと思っています」
「そうですか、そういう目的がおありで、当院を訪ねて下さったのですね。ミャンマーと言えば心を痛める悲しい出来事がありましたね。私も良く覚えています」
「ええ、5年前のことです。よく覚えていらっしゃいますね」
「はい、あの時、イエス・キリストの名の下に派遣した多くの兄弟姉妹も犠牲になりましたから。私達もミサを行い、癒しと追悼のお祈りを捧げました」
 5年前、クーデターを起こしたタッマドゥに対して抗議活動を行った多くの市民の中に、クリスチャンの市民もいた。タッマドゥの兵士は、半年で千人以上の市民を殺害し、2万人以上の市民を不当に逮捕・拘束した。そして拘束された市民の多くが拘束されていた施設の中で発生したコロナウィルスのクラスターによって亡くなった。
地方では、市民が避難していた教会をタッマドゥが攻撃して破壊し、牧師や信徒が殺された。ローマ教皇は教会を攻撃対象としないようにと緊急声明を出したが、神の代理人の声はタッマドゥには全く伝わらなかった。
「そうですか、ミサを行ってくださったのですか。では、シスター、たってのお願いがあります。このリストにある全てのハーブの苗を分けて下さい。先ほどの献金はそのためでもあります」
パウロさんが慌てて口を挟んだ。
「おい、お前、ミャンマーでハーブを育てるつもりなのか?やめろ、やめろ。俺がどれほど苦労したか、お前も知っているだろう」
「そうだね、パウロがどれほど苦労したのか僕は知っているよ。でも、頑張れば出来ることをパウロが教えてくれたから、僕も頑張れば出来ると思ったんだ。それにこのハーブは神様の祝福を受けているから大丈夫だ」
「まあ、そうだな。10万ユーロの祝福を受けているもんな。シスター、俺からもお願いします。苗をこのアルバートに、いや、ミャンマーのために分けてあげてください」
シスターは胸元で十字を切ると「主がお望みのことですから」と言って、ハーブ園の中で働いている数人のシスターを集め、リストを渡して指示を出した。


 サンタ・キアーラ修道院からホテルに戻る車の中で、アルバートさんも私も黙っていた。ただ一人、パウロさんだけが「いったい、何て高価なハーブなんだ。俺が作った方がずっと安上がりだ」とぶつぶつと言い続けながら車を運転していた。
「明日はどうするんだ?」
ホテルにつくとパウロさんがアルバートさんに聞いた。
「ここでの用はこれで済んだよ。すべてパウロのおかげだ。心から感謝している。明日、フィレンツェで一泊して、次の日、ローマからロンドンに戻る予定だ」
「俺は何も役になんかたっていないさ。ただ修道院にアポを取っただけだよ」
「いや、信用の無い人の紹介では、ハーブの苗を分けて貰うことは難しかっただろう。なんといったって、あのセント・キアーラのブランドのハーブだから。そこに価値がある」
「そうかな。ハーブはハーブでしかないと思うが。まあ、お前の考えることだ。俺は信じている。何か必要なことがあったら遠慮なく連絡してくれ。それから、もし機会があったら、俺の嫁の墓に行ってくれないか」
そういうと、パウロさんは私を大きな両腕でハグして、そして大げさな身振りで私の頬にキスをして帰っていった。

 その夜、アルバートさんは夕食をホテルの部屋の中で取りたいと言って、イタリア料理が大好きな私をがっかりさせた。しかし、きっとそれには何か理由があるのだろうと思ったので何も言わず、私はルームサービスのメニューをじっと見つめた。
「無理。イタリア語だから何が書いてあるのか全く分からない」
私は両手を上げた。
「大丈夫だよ。ソーミンが好きなものは全部知っているから、僕が代わりに頼んであげるよ」
やっぱり、アルバートさんは優しい。こんな優しい人と結婚したって本当のこと?
私はこの5年間の空虚と諦観だった日々をまた思い出してしまい、さっき最後の涙にしようと思ったのに、ベッドの枕を抱きかかえて泣き始めた。
「ソーミン、そんなに泣かないで。本当に申し訳ないんだが、ここにはソーミンが好きなモヒンガ―は無いんだよ」
「そんなことで泣いているんじゃないの。それにイタリアでモヒンガーなんて食べたいなんて思わないし」
私はそう言うと、抱えていた枕をアルバートさんに投げつけた。

 ミャンマーで修道院を模したホテルを作り、暗黒と混乱を経て崩壊したミャンマーと離れた場所に、人々の幸せの根源を見つめ直す場所として提供したい。
そのような場所は街の中ではあり得ず、食べ物を自給自足する森の中や谷の奥、天に近い山の上、川べりや湖畔といったいわゆる 僻地、ミャンマーを崩壊させたビルマ族の歴史に登場することのなかった田舎を選びたい。崩壊したミャンマーでは、以前のようなホテルサービスを提供することは不可能と思われているが、食べ物は地産地消、電力は太陽光、水は川や湖の水を汲み上げて濾過することで十分に快適なインフラを自前で作ることが出来る。ただし、通信回線は中国に傍受されているので宿泊客は携帯電話とインターネットを利用することは出来ない。そのホテルで、ゲストは長い人生の最後の休暇をゆっくりと癒されながら過ごすことが出来る。
アルバートさんはこのような計画の一つ一つをゆっくりと、丁寧に話してくれた。そして、その計画の裏にあるもう一つの計画についても。

 フランチェスコは、アッシジの富裕な織物商の家に生まれ、アッシジの若者の先頭に立って気ままな青年時代を送っていた。ところが、隣町のペルージアとの戦いで捕虜となり大病を患ってしまう。病が回復した後、フランチェスコはすべての現世的な快楽や野望を放棄し、福音書に記されているイエス・キリストの模範に従って生きようと決心する。托鉢をしながら人々に罪の悔改めを説き、荒廃した教会を修復するフランチェスコの周囲にはやがて彼にならい、聖書の福音書の理想に従って生きようとする弟子たちの集団が形成される。
「ねえ、ソーミン。900年も前のフランチェスコの生き方ってミャンマーに良く似ていると思わない?」
アルバートさんはホテルの部屋に置いてあったアッシジのパンフレットを読みながら私に聞いた。
「なるほどね。場所と時代は違うけれど、中身はミャンマーにそっくりだわね。あまり深く物事を考えずに、野放図に生きてきたミャンマー人。なぜかアジアの最後のフロンティアとおだてられて、親が稼いだお金の消費に明け暮れた若者達。ところがコロナにかかって大病を患い、タッマドゥとの戦いに敗れて、国が崩壊する。ここまでは良く似ているわ。でもその後のフランチェスコのように聖書の福音書にあるような生き方をしていこうと思う人はミャンマーにはいないわ」
「そうだね。そういう人が出てくるのにはまだ時間が必要だろね。でも、そういう人が出てきてくれないと困るよね」
「私は無理よ。聖書のように清く正しく公平に謙虚に神様を崇めて生きていこうなんて思っていないもの」
「ははは。ソーミンじゃないよ。僕でもない。でも、そういう人が出てくるように僕たちが活動をしていくことは可能じゃないかな」
お兄さんに親を託し、病院を経営する父親のお金で自分がやりたいことだけをして生きてきたアルバートさんは若き頃のフランチェスコに通じるものがあるなと思った。
「でもアルバートさんは聖書のように生きていきたいと思っているの?」
「まさか。無理、無理。それに僕はクリスチャンじゃないしね」
「えー、そうなの?」
「そうだよ。聖書のように生きていくことが出来るのは、この世では修道僧だけじゃないかな。欲がないと前に進むことが出来ないのが人間だと思うよ」
アルバートさんは私を優しく抱きかかえると、私のうなじにそっと唇を寄せてきた。

 翌日、私たちは列車でフィレンツェに行き、観光そっちのけで薬局巡りをした。そこで私たちが知り得たものはアルバートさんの計画をより具体化させるものだった。
その翌日、列車でローマに到着すると、私たちはそのまま空港からロンドン行きの飛行機に乗った。これが私達の新婚旅行だった。


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