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自分が一番好きなゲーム 「ヘラクレスの栄光Ⅲ 神々の沈黙」

noteをはじめたとき、自分が好きなゲームについても書いていきたいなと思っていて。これまでどんなゲームをやってきてどう感じてきたかも書き残していきたいと。
で、一番最初に書きたいゲームとなると、それは自分の中で一番のゲームの話にやっぱりなってしまう。

年を取るにつれ新しいゲームに触れ「あれもいい」「これもおもしろい」と思いつつ、その答えは結局変わらずに今日まで来ていて。
「ヘラクレスの栄光Ⅲ 神々の沈黙」
それが私にとっての一番のゲームです。

1 ヘラクレスの栄光Ⅲとはどんなゲームか

これを書いている2022年正月。前年の年末にゲーム総選挙というTV番組がありまして、私は番組は視聴していないんですがベスト100まで発表があったようです。ちなみに1位は「ブレスオブワイルド」で、私も普通に審査員的に考えればそうだろうなと思います(それだけ素晴らしい)。
ちなみに「ヘラクレスの栄光Ⅲ 神々の沈黙」は100位までに入っていません(まあ予想通り)。

かといって奇をてらっているわけでなく、自分にとって一番のゲームという問いと真摯に向き合うと、答えがやっぱりこれになってしまう
多くの方(特に若い方)には、初耳のゲームかなと思うので、なぜ私がそこまで推すのかについてまず説明していきましょう。
本来なら自分の言葉で書くべきですが、ウェブサイト「ゲームカタログ」さんに、私の考えとほぼ同意見の文章(しかも私が書くより読みやすい)が掲載されているので引用させていただくと

ゲームは、操作性・グラフィック・インターフェース・ゲームバランス・システム・シナリオといった様々な要素で成り立っている。特に名作・良作たるゲームは、一般的にそれらの要素の多くが優れているものだ。
(略)
ところが中には、「発売当時の状況を考えても、多くの要素が凡作以下」と言う他ないにもかかわらず、当時遊んだプレイヤーが何年にもわたって「素晴らしい」「感動した」という思い出を持ち続けている作品がある。
その名作の名は『ヘラクレスの栄光III 神々の沈黙』。
(略)
しかしそれらの点を「シナリオ」というほぼ一点だけで挽回しきり、遂にはシリーズ自体の評価までも高めてしまった。
シナリオを手掛けたライターの名は野島一成。後に『ファイナルファンタジーVII』のシナリオを手掛ける人物である。

ゲームカタログ@Wiki ~名作からクソゲーまで~

社会一般から、という観点から考えれば非常に適切な論評かと思います。
このゲームの最大の魅力はシナリオ(ストーリー)にあります。それまで丁寧に張ってあった伏線を終盤で怒涛の展開とともに一気に回収し、すべてをひっくり返して新たな世界をプレイヤーに提示してみせる。ストーリーが転換してすべてがわかったときの表現しがたい虚無感
私があれこれ考えつつも、結局このゲームを自分のベストに推すのは、記憶の美化だとしても、まだこのゲームを超える衝撃的なストーリーに出会えてないということに尽きると思います。

で、このストーリーを味わうには、ゲームをやるしかない。wikipediaではストーリーをラストまで思い切りネタ割っているので御注意いただきたいんですが、多分、文字でそれを読んでも「このストーリーのどこが凄いの?」という感想しか出てこない
youtubeにもプレイ動画はあるようですが、それを見てもストーリーは理解できても多分衝撃は味わえない。ゲームの世界に没入して、コントローラーを握りボタンを押して自分自身で選択をしていないと、最後の衝撃は身をもって感じることができないタイプのストーリーです。

読者の方の中には、あなた(筆者)はそこまで激賞するけど、なぜランキングで上位に来ないの?と思う方もいると思います。その理由も明確で、客観的にゲーム全体をトータルで見ると多くの人にとっては評価が下がってしまうゲームなんですね。

私には、このゲームにまつわる印象深い思い出がありまして。当時、自分は学生だったんですが、ある日、ゲーム好きの女性の先輩に「おもしろいRPGない?」と聞かれて、プレイ後まもなかったこともあって、このゲームを大プッシュしたんです。

で、しばらくしてその先輩と話したら「途中で挫折した」と。このゲームが大好きな自分はそれを聞いてとてもがっかりしたと同時に、あのストーリーを知らずに終わるなんて勿体ないと思った記憶が鮮やかに残っています。

ただ、いま考えると、勿体ないという思いは変わりませんが、先輩が途中で挫折したのもわかる
まず、ストーリーが凄いといっても、その凄さが露わになるのは終盤になってから。私は終盤に向けた伏線を丁寧に積み上げていく序盤から中盤も十分魅力的ではあると思うんですが、人によっては退屈と感じて不思議ではない
最後の衝撃という得られる見返りの大きさがわかっていればその退屈さも乗り越えられるんでしょうが、プレイの途中でそれがわかるわけもなく。

それに加えて、敵とのエンカウントが相当きつい。当時、このゲームをプレイした頃はバランスがきついゲームも珍しくなかったので耐えられましたが、最近のよく調整されたゲームに慣れた方はそれだけで放り出してもおかしくないレベルの厳しさ。
延々と続く雑魚狩りも、私に言わせればそれも最後の逆転のインパクトを際立たせるひとつの要素なんですが、これもこのゲームの評価を下げてしまった要因かと。

個人的には、上の紹介文の引用ほどストーリー以外の要素がひどいとは思ってはいないんですが、客観的に見てしまえば、ストーリー一点突破のゲームというのは否めず。私がストーリーに軸足を置いてゲームをプレイしている人間だから、このゲームをここまで高く評価しているというのも事実。
しかしそれでも。その一点突破のレベルが他のゲームとは段違いなのもこの記事を読む方には訴えておきたいと思います。

2 ヘラクレスの栄光ⅢとFF7の関係性

「ギリシャ神話の世界をモチーフにした舞台。主人公はすべての記憶を失った青年。そして、彼は高いところから落ちても死なないなど不死身であった。自分は一体何者なのか。何故自分は不死身なのか。答えを求めて主人公は旅に出る」

ヘラクレスの栄光Ⅲのストーリーを私なりに紹介するとこんなところでしょうか。上の引用でも書かれていますが、このゲームのシナリオライター野島一成氏本作よりはFF7のほうで有名な方です。

ゲーム史に残る大ヒット作となったFF7に比べてヘラクレスの栄光Ⅲを知っている人は本当に少ないんですが、FF7のストーリーを高評価する方には、ぜひヘラクレスの栄光Ⅲをプレイしてほしいと思っています。

というのも、この二つのゲームは「自分の知らなかった自分」というモチーフが共通しています。
FF7の紹介は本稿では避けますが、ヘラクレスの栄光Ⅲでは、ストーリーを通じて主人公は自分が何者かを探し続け、最後に、記憶を失ったために知らなかった「自分が何者であったか」のすべてが開かされます
この二つのストーリーは双子のような存在だと私は思っていますので、繰り返しになりますがFF7のストーリーに感銘を受けた方はぜひこのゲームのことも覚えておいてほしいと思います。

後述しますが「ヘラクレスの栄光Ⅲ」はゲームという媒体でストーリー(物語)を描くことに意欲的に取り組んだ作品だと私は評価してまして。
野島氏は後年、FF7を手がけますが、FF7も大量にムービーを使用したりポリゴンを使うなど、それまでのゲームとは一線を画したインタラクティブなゲーム作りを目指していたことは、当時を知っている方なら御記憶されている方かと。

現在では、かつて多くリリースされたシューティングゲーム(私も1942とかかなり入れ込んだ口ですが)のような単純なアクションゲームは数が少なくなりました。
いま発売されるゲームのほとんどは、FF7が作り出した流れを踏襲し、ムービー等でストーリーやゲーム世界の設定を丁寧に提示しながら、ゲームが進んでいきます。

いまやそういったストーリーや背景の説明は当然のこととなりましたが、ムービーが使えないなど当時の技術上、多くの制約と限られた条件の中で作られたにもかかわらず、野島氏が描き出した「ヘラクレスの栄光Ⅲ」のストーリーはいまでもなお輝きを失っていません

今日の時点ではプレイできるハードも限られており、簡単にプレイを推奨できる状況ではなく(switchでもプレイ可能だがスマホ版リメイクなので個人的には微妙…)、もしかしたらこのまま歴史の中に埋もれていく一本となるかもしれませんが、可能な方はぜひ手に取ってほしいと思います。

3 ヘラクレスの栄光Ⅲが私に与えた影響

この記事を書くにあたって、改めてこのゲームが自分にとってどんなものゲームだったか、改めて考えてみました。
当然ですが、私も世に出た全部のゲームをプレイしているわけでなく、あくまでも自分のゲーム史においての位置づけという話になるんですが。

私のゲーム史を簡単に振り返ると、まずエポックメイキングだったのが「ドラゴンクエスト1」(1986年)。
反射神経や操作の正確性を競うアクションゲーム中心の時代に、ちゃんとストーリーが展開されそれに沿って進んでいくゲームに触れたのは、たぶんこのゲームがはじめてだったと思います。

続いて「ドラゴンクエスト3」(1988年)。「1」が質は高いけどよくあるRPGストーリー(事実上、最初のTVゲームRPGですから当たり前なんですが)だったのに、「3」はそこにミステリの謎解きのようなどんでん返しのストーリー展開という驚きを持ち込んだ。
「3」を私は高く評価していますが、ただ「3」のストーリーも優れたミステリのように知的欲求を満たす楽しみ方の範囲にはとどまっていたと(批判ではなくカテゴライズの話です)

そしてこの記事の「ヘラクレスの栄光Ⅲ」が1992年。記憶では、おそらく発売直後まもなくにプレイしていると思います。
このゲームをプレイし終え、そのストーリーを体験した後、私が思ったのは「ゲームは小説などと同じ立派な創作物であり、どんな表現もできる
ということでした。

ゲームはクリエイティブな創作物なんていまの方にしてみれば常識レベルの大前提でしょうが、反射神経を競う単純操作の初期のTVゲームの残像がこの頃は色濃くまだ残っていて。上記のドラクエのようなゲームも徐々に出てきていたもの、ストーリー(物語)を楽しむのは、本か映像(TVや映画)というのがごく普通で当たり前の前提だったのです。

でも、このゲームのエンディングを呆然と見つめながら。ゲームでもこんな素晴らしいストーリーを味わうことができるんだと。
ただの暇つぶしなんかじゃない。ゲームは本やTVと同じようにストーリーを楽しめるメディアだし、本や映画にはできない自分で操作をして進んでいくゲームだからこそ作り出せるストーリーさえある。
そう、ゲームには無限の可能性があるんだと。私はこのゲームのエンディングを見ながらはっきりと認識したのです。

私がこのゲームをどうしても1位にしてしまうのは、ゲームでどんなストーリーも作り出せる、ゲームの可能性というものを若い自分にはじめて教えてくれた作品だからこそ、なのかもしれません。

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