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究極のハードでシリアスな選択の物語「タクティクスオウガ」

今回も私の好きなゲームの話。
これを書いている今週、直木賞が発表され米澤穂信さんが受賞。これまでの活躍を考えれば「ようやくやっと」という話ではありますが、この米澤穂信さんが好きなゲームとして有名なのがこの「タクティクスオウガ」

前の記事の「ヘラクレスの栄光Ⅲ」の紹介で、ゲームならではの創作物(物語)の可能性を感じた、ということを書いた。
感覚的な捉え方になるが、ハードウェアの進歩を背景に、だいたい1990年代はじめぐらいから、ゲームにおける物語を拡張しようとする動きが一気に出始めてきたように思う。

様々な表現方法や手法で、ゲーム内の物語を作り出す試み。それはゲームでできる物語、ゲームだからこそできる物語とは何かというテーマへの挑戦でもあった。
その中で、大きなトレンドとなり現在に至っているのが「マルチストーリー」の要素である。

ちょっとここで余計なこだわりを書くと、一般的にはマルチエンディングという言葉が使われることが多いが、それだとストーリーがほぼ一本で最後の選択肢でエンディングが異なるのも該当してしまう(例えばドラゴンクエスト1の竜王との会話のような)。
ここで取り上げるのは、ストーリーそのものが分岐し全く異なる展開を見せるもの。その違いを強調したくて「マルチストーリー」。

で、この「マルチストーリー」。結論を先に書くと、コンピュータゲームと非常に親和性の高い要素だったのは、いまを生きる皆様はよく御承知のとおり。
物語の局面での選択という「if」に添って話が展開される。ひと昔は、これは物語にとって夢みたいなことだった。
エンタメの王道である「本」は誰が読んでも同じストーリーだし(ゲームブックという形で実現しようという試みもあったがやはり十分とは言えなかった)映画やテレビなどの「映像」も同様。

でもコンピュータゲームなら、これが十分なクオリティで実現できる。ゲームにおける物語の在り方を模索し、その幅を拡張しようとする動きの中で、「マルチストーリー」の試みも様々な形でトライが行われ、多くの傑作が世に送り出されるようになる。

私のプレイしている範囲で言えば、「ロマンシングサ・ガ2」(1993年)は今日でも賞賛されるべきクオリティでマルチストーリーを実現しているし、小説という形態を踏まえたトライとしての「弟切草」(1992年)は、続く「かまいたちの夜」(1994年)で非常に高いレベルでマルチストーリーの楽しさをプレイヤーに伝えたと思う。

そして、この記事で紹介する「タクティクスオウガ」(1995年)。後述するようにそのハードな内容は、いまの時代では人を選ぶかもしれないが、ゲーム史に残る傑作であると断言できる。

ゲームバランスが異常にきつい(セーブシステムの絡みもあって数えきれないほどやり直した)のはもうこの時代のお約束。
クオータービューのマップで展開されるバトルは、あるキャラの移動を一度ミスしただけで瞬く間に全軍が崩壊するシビアさ。将棋やチェスのような、一手のミスも許されない緻密な戦略と戦術が要求されるが、それが絶妙なバランスで設定されていて、プレイヤーのチャレンジする意欲を掻き立てる。

そしてキャラの育成についても、役割と特徴が明確なクラスや、個々のキャラに設定された絶妙な成長曲線が相まって、キャラへの感情移入をとことんまで高める。
いまでいうNPCのように、戦死してもストーリー等に影響のないキャラクターもいるのだが、私のように「我が軍から一人の戦死者も出すものか」と誰かが倒れるたびにリセットし、結果、膨大なプレイ時間となった人も当時は少なくなかったはず。

細かいキズはあるけれども、何だかんだ言ってすべての要素が非常に高いレベルで作られていたのがこの「タクティクスオウガ」。しかし、この作品がゲーム史に残る金字塔となったのは、やはりそのストーリーがあってこそでもある。

ネタばれはしたくないのでストーリーの内容に触れられないのがもどかしいが、民族紛争をテーマとしたその内容は、終始一貫してとことんハードでシリアス。

最初にゲームを開始すると、キャラメイキングそしてオープニングの後、黒背景に白文字で ”あれ” が表示される。

Chapter1 僕にその手を汚せというのか

当時、この文字を見たときに胸が高鳴った。これまでプレイしてきたのとは、このゲームは何かが違う。そういう確信めいた予感が湧きあがってきたのを覚えている。

プレイを始めれば、その予感を裏切らない歯ごたえのある各ステージのバトル。主人公が生きる複雑な要素に満ちた世界。抑制された口調で、徹底してシリアスに進むストーリー。

そして、Chapter1の最後。このゲームは、プレイヤーにある究極の選択を突きつけてくる
この選択の場面こそがタクティクスオウガの本質であると言い切っていい。

予備知識なしにこのゲームをプレイしたなら、この選択を前にしたすべてのプレイヤーは、絶対にその手が止まる

「こっちが正しいに決まっているから、こっちを選べばいいんだろう」
「どうせどっちを選んでも、この後そんなに変わらないだろう」
そこに、それまでのゲームの選択シーンにあった「お約束」の要素は微塵もない
Chapter1で展開されたストーリー、そしていま迫られている選択の内容を考えれば、どちらを選ぶかでこの後の運命がまったく別のものになることをプレイヤーは既に悟っている。

「ゲームで、こんなの選ばせるのかよ?」
当時、若かりし自分がこの選択を前にして、そう震えたのを覚えている。

実際に生活し生きていく上でも同じだが、選択するということは、傍観者でいられなくなることを意味する。
選択をすることで否応なしに自分はそのことに関して当事者となる。傍観者として、気楽に感想を述べ無責任に批評をすることはもう許されない。

このゲームが、ここで選択の場面を飛ばしプレイヤーの意思の介在しない形でストーリーを進めるのではなく、プレイヤーによる選択を求めてきた意味。
それは、ゲームのプレイヤーとして第三者的に客観的にこのストーリーを眺めるのではなく、自分だったらどうするかという我が身の選択として、どっぷりこのストーリーに浸かって来いよというメッセージ。
その作り手のシリアスさとガチンコさに当時の若い私は震えたのだ。

そして、その後展開されるストーリーの重さ。そこにはいままでのゲームが持っていた「ゲームらしい軽さ」は、相当なところまで影を潜めている。
長いプレイの後、このゲームをはじめて終わらせた時は、気が抜けた。
たいていのマルチストーリーのゲームは、エンディングを迎えると「あのとき、あっちを選んでいたらどんな話だったんだろう」とすべての分岐を見たくなるものだが、「タクティクスオウガ」については正直、終わった直後はそんな気分にならなかった。

私のたどりついたエンディングは、決してカタルシスのある終わり方ではなかったけれど、「これも悩んで出した自分の選択に基づいた自分の物語」として受け入れる気持ちが強く、自分が選ばないことを決めた選択肢で展開される、違う「if」の世界を見ようという気力が湧かなかった
かなり時間が経ってから、再プレイでようやく異なる分岐をプレイしたのを覚えている。

もちろん、上記の場面でなくストーリー上、多くの場面で様々な選択を迫られる。それによってまたストーリーは変わり、立場を変えたプレイヤーの前に紡がれる物語は、その都度、様々な顔を見せる。

現在のゲームでも、ストーリー分岐があるもので、ゲーム内での展開に矛盾が生じて(キャラクターの○○は、いま××のはずなのに△△していることになっている)「おかしいじゃん」と興ざめすることは少なくない。
それだけ分岐する複数のストーリーの整合性をとることは難しいのだが、「タクティクスオウガ」では相当なところまでそういう矛盾や破綻がないのは、もっと評価されていいと思う。

先に述べたクオリティの高いシステム、難しいがチャレンジ意欲を掻き立てる絶妙な難易度に加え、その他にも素晴らしい音楽(PV動画に使いたいと常々思っているが権利処理がね…)と死者の宮殿などのやりこみ要素とすべてのクオリティが高い名作である。

ぜひ未見の方はプレイを、と言いたいが、多分いまとなってはプレイが難しくなっているかも(wiiがあれば大丈夫か)。リメイク版は悪くはないが、やっぱり本家の歯ごたえには一歩及ばない。
後は、紹介記事・攻略記事は一切読まないことをお奨め。かなり豪快にネタを割っているものも少なくないので…。やっぱり、あの衝撃は予備知識なしで味わってほしいところである。

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