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文章練習2[3分短編]

 しかし誰もいなかった。いるはずはなかった。この廃車置き場は、一番近い人家から3km近く離れていたし、人道のない平山の茂った茅をかき分けて偶然見つけたのだ。忘れられた物が放置される場所。捨てられるでもなく、再び脚光を浴びる事もない。その様な物がただ放置される場所。四方を高さ3mの錆びたフェンスに囲われ、入り口は硬く施錠されていたので、僅かに綻びた隙間を探すのに苦労した。ぼろぼろと錆の粉をふき、めくれた鉄網を手繰り、袖の端を破ってまで侵入したのだ。

 彼は側湾症だった。生まれつき大きく背骨が曲がり背丈は同世代の子供より二回り小さかった。歩けば左右に揺れた。歩行具はいつもいじめの種となった。哀れんだ教師の功名心が、彼をスカウトに加入させようと試みた。調理師勲章や火起こし勲章が彼の自信に繋がれば良いと考えた。彼に居場所を与えたかった。どうなったか、ある意味では正しかった。教師は彼の為に、調理師補助勲章や火起こし補助勲章というバッジを作らなければならなかったが、思惑この勲章は彼の自尊心を大きく傷つけた。同時に、他人の善意に傷付けられるもどかしさを感じた。それはわがままだったかもしれない。なぜ自分をこの様に扱うのか。又、彼は自分の不満を乱暴に投げつけても壊れることのない大人に、深く傷ついた自分を見せつけることを楽しむ術を知った。それ以来、彼は自分の中に居場所を置くようになった。

 廃車置き場は、良く言って、この世の果てを見ている様だった。裂けて取り外されたシートの山に、腐ったクラウン。このへしゃげて潰れ、タイヤの外されたセダンは、真っ二つでまな板に置かれたままの白菜だった。葉先は茶色く変色して、捲れ上がっていた。

 こいつのトランクを開けてみようと思ったのはほんの好奇心だった。そうすることが正しい様な気がした。錆びてノックが固まっていたので、辺土に転がっていたシャーシの部品をあてがってこじ開けた。ぎちぎちと嫌な音を立てて半分だけ開いたトランクの内部はとても広く、敷布の解れた奥の端に、古い革製の大きなボストンバッグが詰め込まれていた。

 これはなんだろうか。ファスナーには青錆びが付き、顔を寄せると土と革と油の嫌な匂いがした。彼はわくわくしながらトランクの中に滑り込み、ゆっくりとバッグに手を伸ばす。突然、彼は言い表しようのない不安に襲われた。このバッグはこの場所に不釣り合いだと感じた。だが、やはり好奇心には抗えなかった。  

 決心して金具に指をかけた瞬間、地鳴りがした。同時に車体が大きく揺れる。地震だった。あちこちの廃車ががちゃがちゃとなり始める。遠く山の向こうからサイレンが鳴り響き、津波への警戒を促した。トランクの扉がガリガリと音を立て、落下した。事態が飲み込めない彼はあっという間に暗闇の中にいた。

 咄嗟に立ち上がろうとして、頭を強く打った。左手を伸ばすと、すぐに粉の吹いた金属に行き当たった。右手は、革の感触だった。押すと重みがあり、柔らかく硬く、空洞と物質の一塊りだった。油と土の匂いが立ち込め、息苦しかった。荒くなった自分の呼吸が聞こえる。揺れは収まっていたが、まだサイレンの音は鳴り響いていた。彼は四つん這いの体勢から起き上がる形で、背を使って扉を持ち上げようと試みたが、ぎしぎしと音がするだけで、徒労に終わった。まだ3月だというのに、玉の汗がこぼれ落ちるのを感じた。後に残るのは混乱だった。めちゃくちゃに扉を叩き、叫んだ。叫び声は彼の喉を出た瞬間には虚空へ消えていった。誰か、誰か。しかし誰もいなかった。いるはずはなかった。

 彼は少女の話を思い出していた。家族と共にキャンプサイトを訪れ、夕飯の支度をする両親の元から忽然と消えた少女。一人の人間が消えることは並大抵のことではない。誰かに連れ去られたのだという人が居た、深い森の中で彷徨っているのだと主張する人も居た。あの時は、沢山の人が駆り出され、沢を探し、廃屋を探し、廃車を探した。彼女は一体どこに消えたのか。

 学校だって本当は行きたくはなかった。彼が靴を履く姿を真似してからかう者がいたし、昼食は机を合わせる仲間がいなかった。スカウトでは、いつも作業の仕上げだけを充てがわれ、周囲は良く思わなかった。自分が居る意味を感じられなかった。他の皆が苦労して石を積み上げ、彼はくす玉を割る役だった。そんな物で自信を付けられる人間がいるのか。考えてみると、いつだって彼は行方不明だった。

 彼はボストンバッグを抱き寄せた。頭があり、肩があり、腕があった。そして想像した。周囲の大人達が竹竿を持って茅原を掻き分けてこの廃車置き場を見つける所を。大人達は野晒しの歩行具を見つけるだろう。そしてこの車をこじ開ける。その様な光景を繰り返し想像した。

 繰り返すたび、シチュエーションは少しずつ違った。犬がいたかもしれない。母親が泣きながら駆け寄って来たり、もしかするとあの教師も間抜けなスカウト帽を被って自分を探してやって来るかもしれない。
 もし、誰もやってこなければ、と考えた。彼はこの廃車の中にいた。

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