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ツバメの巣を見守る不審者、文鳥の不安 / 日記

近所のマンションの駐車場に、ツバメの巣が2世帯ほどあり、ここ3年ほど見守っている。
見守ると言っても、通りすがりに歩道からチラっと眺めているだけだから、実際のところは「僕が君を守るよ」とのたまうJ-POPの歌詞のように何もしていない。
だいいち、他所のマンションの敷地内だから、(不法侵入こそしないものの)あまりぼうっと見つめていたら不審者になってしまう。ツバメは違法建築をしたところで鳥獣保護法で守られているくせに、人間はぼうっと生きているだけでは不審者扱いだ。卵生と胎生で、生物の扱いがここまで違うのだから、法律はおそろしい。

今年のツバメたちはいくぶん帰省が遅く、当初はどちらの巣にも1羽しか帰ってきていないようだった。夜、コンビニに行くついでに通りかかると、一羽でぶすっと寝ているシルエットが見えた。「今年の繁殖は失敗だろうか」と不審者ながらにひやひやしていたのだが、どちらもいつの間にかちゃんとパートナーを見つけたらしい。先月の半ばにはヒナたちがびっちりと詰まっていた。ほんと、ツバメの巣ってびっちりと鳥が詰まっているよな。

昨年の5月から文鳥と同居をはじめた結果、野鳥の姿が前にも増して目に留まるようになった。
人間は嫌いだから動物は比較的好きで、幼稚園の頃なんかは友達がいないから図鑑を読みふけるように舐め回していた。したがって、鳥についてはもともと好きなほうである。
同じ二足歩行をする生き物である関わらず、人と違って鳥は大変愛らしい。人間にもクチバシが生えていれば、もっと愛らしく見えるのだろうかと思ったが、それではただのカッパだな。

散歩をしていても、植木に隠れたスズメを観察したり、ヒヨドリがトカゲを捕まえている様子に息を呑んだり、走り回るムクドリを追い掛け回す時間が増えたように思う。やはりただの不審者である気がする。
特に、この春は巣立ったばかりのスズメたちを観察するのが楽しかった。あいつらは終止ぽへっとしていて、僕が近づいてもあまり気がつかなかったり、美味しそうなものに目を奪われて驚異を忘れたりと、一挙手一投足が愛らしい。翼をクリッピングされた文鳥は未だに飛べないが、野鳥たちは巣立ちと同時に飛び立つのだからたいしたものである。

冒頭のツバメもそうなのだけれど、鳥たちは多種多様なかたちをしているくせに、よくよく仕草を見ているとひとつひとつの行動はとても似通っている。羽繕いや水浴び、うたた寝をする姿。小鳥たちはもちろん、カラスたちまでだいたい同じなのだ。体の基本的な構造が同じなのだから当然と言えば当然なのだが、そうした仕草を学ぶほど、彼らの身体を規定する命令は、はたしてどこからやってくるのかと気になってくる。

たとえば、僕と住んでいる文鳥の精神の根本にあるものは、不安である。あのメスの文鳥は、常にぼんやりとした不安を抱えて生きていて、常に安心感を得ようと一生懸命になっている。
暗くて狭い場所であるとか、美味しくて新鮮なご飯であるとか、そういう安心感の材料をかき集めることに、一日の大半を費やして生きている。
そうした生き方を見ていると、僕らが常日頃感じている喜びや悲しみと言った感情というのは、「快・不快」や「安心・不安」といった根源的な感情から枝分かれしたものに過ぎないように感じられてくる。
文鳥の精神が発達していない、と言いたいのではない。
むしろ、僕たちは根本的な感情の上に、高級そうな表層の感情をトッピングしているにすぎないのではないか。そのくせ、表層の感情をいじくり回してばかりで、自身の根本には向き合わないように振舞うことに、一日の大半を費やして生きているのではないか。
文鳥と過ごしていてしばしば悲しくなるのは、彼らはあまり「遊ばない」ことに気がついてしまうときである。
文鳥はいつも精いっぱいだ。暗がりを求めるのは繁殖に適した場所を探す本能で、ティッシュや綿棒を運ぶのは巣材を集める本能だ。もちろん、彼らにだって楽しさは感じている。でも、それは僕が思っているよりも、ずっと限定的なシチュエーションで生じるものだろう。
それでも、僕は文鳥が手の中で眠っているとき、僕と彼女の間で共有している安心感の尊さを理解している。きっと、文鳥も理解しているはずである。いまのところはそれで十分だろう。

ツバメのヒナたちはいつの間にか巣立ってしまったらしく、この間までのぎっしりと詰まった感じは失われてしまった。
巣立ちを迎えたツバメたちは、河川敷などに集まり、数千羽から数万羽のねぐらを形成するらしい。民家の軒先にいるのは本当に子育ての間だけなのだ。

生まれて初めて宙に舞った子ツバメは、どれだけ不安であったろうか。母は少し離れたところからこちらをジッと見ている、常に触れ合っていた兄弟たちとは、数秒前に離れてしまった。地面にぶつかるまでのゼロコンマ数秒の間に、身を引き裂かんばかりの不安から逃れようと、本能的に体を振り回す。わけもわからぬままに、身体を宙に浮かせる方法を知る。母のいる電線までがむしゃらに飛び、自分が手に入れた能力を理解する。すぐに兄弟たちも後に続いてくる。

それから数日が経ったある夕方、父と母は生まれ育った巣とは正反対の場所に飛びはじめる。子ツバメは、怯えながら兄弟たちと後に続く。飛べども飛べども知らない場所で、疲れとともに不安がまた吹き上がってくる。彼らはどこに行くのだろう。どうしていつもと同じではないのだろう。
眼下に川とヨシ原が見えてくると、親ツバメは高度を下げはじめる。次第に、他のツバメたちが見えてくる。そこで子ツバメは、この世界には自分たち家族のみではなく、他にももっと多くの同族がいることを悟る。先ほどまでの不安が少しずつ和らいでいくのを感じる。

文鳥は今日もカゴの中ですやすやと寝ている。
僕もまた、リビングでひとりキーボードにがたがたと妄想を書き散らしている。
どれだけ不安になったところで、僕たちに河川敷のヨシ原は無い。そのかわり、命がけで海を渡る必要も無い。

軒先のツバメたちは、いまのところねぐらに帰らず、夜になっても巣の周りで寝ている。おおむね、引っ越しのためにインフラの解約をしたり、役所に転居の手続きを出したりせねばならないのだろう。
せめて、もう少し僕の生活圏内にいてくれないものかと思う。もうすぐ、忌忌しい梅雨がやってくるわけだし。


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