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先生がほしい

書きたいときにかけるのがノートのいいところだが、
このところは書きたいときに湧き上がる気持ちがどろっとしたものが多く、書きたいを抑え込むのに苦労していた。
別に僕が書いたところで世界が変わるわけではないのだからさっさと書いてしまってもいいんだけど、それでも。

自粛でツイッターをよくみるようになって、タイムラインのツイートの比率が変わってきた。
僕のタイムラインで一番賑やかだった写真家が燃え尽きてしまったこともあるのだが、最近は遠隔授業の準備で忙しい大学教授や大学関係者のRTをよく見かけるようになったと思う。
在宅勤務でのんべんだらりと仕事をしている、先行きの見えない賃金労働者としては、正直なところ最近の大学生が羨ましい。
僕らのころはツイッターこそあったけど、自分の大学の教授が積極的に情報発信をすることはなかったし、あったとしても学生のツイッターコミュニティと断絶して届かなかった。
おそらく能動的な学生ならばそもそも教授室に殴り込んで正しいルートで教わっていたのだろうが。
少なくとも、のんべんだらりとスマホを眺めているときに、大学教授のありがたいツイートを読んで興味関心を得られる状態ではなかったように思う。
で、そうして教授のツイートにリプライしていたり、大学の先生の話しをする大学生を見ていると、やっぱり大学生が羨ましくなる。というか、先生というものが羨ましくなる。

僕は大学のゼミには行かなかった人間なので、大学でもっとも大事な講義とされるゼミ・卒論指導を受けることがなかった。いろいろあって、大学3〜4年生をサボりまくり、他人とコミュニケーションを取らなかった。提出1ヶ月前に卒論だけ書いてちゃちゃっと出してやろう、と思わなくもなかったが、卒論の書き方すらわからずに当時の僕はお手上げで、自堕落にサボっているだけで提出期限をすぎてしまったのである。ゼミの先生は顔見知りだったので何度か話したが、その先生も定年で辞めてしまった。
結局その翌年、僕はゼミを放逐されたペナルティ分の単位を含めて、必要単位の半分を1年で取って卒業するハメになった。すんなり卒業がキマって安心した一方で、歯にもの着せぬ教授に「不良在庫はさっさと処分しなきゃいけないにキマってるでしょう」と言われたりもしたが。
ただまあおかげで、自分の大学の色んな講義を受けられたことは良かったのだけれど、その一年間に関しては本当に単位を取るのに精一杯で、「先生」から「知識を学ぶ」という経験ではなかったように記憶している。

今日、外出自粛でやることもないので、2年半前に買ったベースを改めて練習していた。
最近は本当に便利で、youtubeで検索すれば僕が学生時代に聞いてた音楽の譜面があちこちに落ちている。それを見ながら練習して、つまづいたテクニックがあったら、楽器講師系のチャンネルを見て復習して、それをまた反復練習して・・・ということをやっていた。
時代が便利になったことを嬉しく思う一方でゾッとする。たぶん僕よりも遥かに下の世代、中高生たちはこの動画学習が当たり前の状態で趣味や勉強に勤しんで、これから学生になっていく。そして、大学に入学する前にも、「好きな教授」の像がなんとなくできていて、それが進学の参考になったりする。
頭が柔らかくて吸収率がいい時期に、そうやって最高率の方法で勉強していく。その時期に、僕は学校をサボって引きこもって楽器に逃避していた。
きっとこの差はすでに様々な部分で明らかになってきていて、今から5年もすれば僕はよっぽど得意な能力でも無いかぎり、社会から淘汰されている気がして仕方がない。
今からでも純金のうんこを出す練習をしたいが、さすがにそれはyoutubeの動画で学習できるわけでもあるまい。

だから、改めて先生がほしいとお思った。オンラインサロンの胡散臭いやつじゃなくて、信頼して自分の成長をサポートしてくれる人にめぐりあいたくなった。
もちろん、書籍や音楽を通じての先生と慕いたくなる人はたくさんいるけど、そうとは別に。
なんか、今更ながら師弟関係のようなものが結びたくなった。もちろんこの考え方自体が「師弟になれば僕は導かれて、いまより優れた人間に慣れるのだ」という受け身の姿勢ではあるのだが。

みんな、どうやって師匠を見つけてるんですかすね。螺旋丸の特訓みたいなの、僕もやってみたいんだけど。

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