「インターネット芸人」と思い込んで生きる / 日記
アベノマスクでかいわれ大根を育ててから早2年。
最近、くだらないネタをやる遊びをやっていなかったので、そろそろ久しぶりにやってみようと思ってあれこれと準備をしている。
使っていなかったソフトウェアの使い方を復習したり、知らなかったことを改めてググったり・・・
アベノマスクのときもそうだったが、アイデアがくだらなければくだらないほど、それなりに真剣に取り組む姿勢を示さなければならない。
面白さとは落差である。この手の落差は、ボケとツッコミ、いじりいじられに代表されるように、しばしば不健全な面白さを招く。
しかし、自分のくだらなさに、自分の真剣さをぶつけることで生まれる落差は、それ単体では誰も傷つけることはない。
他に優先するべき行動を山積させているので、自傷行為的な危うさをともなってはいるのだが、まあいいだろう。
機材を準備したり、物を作ったりしながら、しみじみと思ったのは、
「コンテンツを作る」といった言い方よりも、「インターネット芸人ごっこをしている」と言ったほうが、自分にはしっくりくるような気がした。どういうことか。
もちろん僕は一回のツイッターユーザーである。在野の厭世家という肩書きを最近考えたが、これは要するに自分に何の肩書きも与えないことを示している。
しかし、なにか悪ふざけをするときは「インターネット芸人」の言動を心がけるようにしたほうが良さそうだ。
少なくとも、僕自身は僕の活動を「コンテンツを作る」ようなものだとは思っていない。そもそもこうしたクリエイター的言い回しが持つ、生活感の無さに対して嫌悪感を持っている。
しかし、インターネット芸人という表現には、どこか自虐と道化のニュアンスが込められている。そして、芸人のミッションは「コンテンツを作る」のではなく、人を可笑しくさせることだ。こっちのほうが、より行動と目的が強固に結びついている。
人を笑わせるのは良いことだ。たとえ指を指して笑われることであったとしても。
ちょっと関係無いが、J-POPの歌詞で「君の笑顔を守るよ」と歌うような歌詞があるが、あれはどういったつもりなのだろうかと考える。
他人がずっと笑顔でいられるようにする。そんなことが可能なのだろうか。
この世界にはありとあらゆる悲しみが溢れていて、僕たちは毎日布団の中でおいおいと声をあげて泣いている。
そんな中で、誰かがずっと笑顔でいるのだとしたら、その人はきっと最初から「笑顔を守る人」の存在を求めていない強い人か、笑顔で本音を隠してなくちゃ生きていけない人だろう。
もしもほんとうに他人の気持ちを思いやるのならば、むしろ笑顔で居られない日があることを理解してやるのが大切なのではないか。
ある人物に、笑顔なんて作れないほど気持ちが落ち込んでいる日があるとする。その人が抱えている漠然とした欠落は、他人の働きかけ程度では癒されないものだとしよう。
僕に言わせれば、そういう人たちが自身の落ち込みをしっかりと受け止める時間を尊重することこそ、他者の気持ちを守ることではないのかと思う。
傷つかない人生が原理的に存在しない以上、傷を受け止められる人生の尊さを、互いに理解し、干渉せず受け止められる世界が、健全なのではないかと思う。
そうした態度は一見すると無責任で無関心に見えるのかもしれない。
しかし、もしも本当に困っている人がいるならば、黙って手を差し伸ばせる程度の美徳があれば、それで十分ではないか。
道化師がもたらす笑いは、道化師の目線が客よりも下になったとき、初めておこるのだという。
道化師は誰もいない部屋で、何度も何度も玉乗りに失敗する練習をする。
本番、首尾よく玉から転げ落ちると、観衆は大笑いする。道化師は、地面から身体を起こしながら、成功を隠していつものように笑う。
いつもながら、全然日記ではないが、だいたいこんな1日だった。どんな1日なんだ。
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