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耳、自身をメンテナンスする、好気性細菌のため息 /日記

ここのところ耳の調子が悪く、そこからずるずると体調不良をこじらせた結果、カレンダー的な4連休と合わせて1週間近く休んでいた。
9割くらいは自己嫌悪や諸々からやってくるストレスのようなもので、それが耳にきている。音が刺さってくるし、人ごみえにいると頭が割れそうになってくる。
そんなわけだから、平日の有給休暇であっても思うように過ごすことすらできなかった。どういうわけか目もしんどかったから、画面を見ることもあまりできず、ただただベッドに寝ころんで、早く時間がすぎるようにと祈っていた。
家の近所の耳鼻科の先生が、てきぱきとよく話を聞いてくれて、情け容赦なく薬をくれる先生である。耳の検査を受けて、メニエール病関連の薬を1週間分出されて、それで様子を見ましょうという話になった。
本当は、鼓膜よりももっと芯の部分に問題があるような気がしている。僕に芯のようなものがあればの話だけれど。そういえば、日常生活において、我々が扱う芯とは、だいたいが野菜の芯である。食感が悪くて扱いにくく、生ゴミとして捨ててしまうものだ。
他人に「芯」に触れたとしても、わたしたちはなんか扱いにくいからって捨ててしまうのかもしれない。それが仕方ないのだとして、そうして仕方ないものや行動に囲まれて生きている生活とは、なんなのだろう。


無理に外に出て遊んでいたとしても、「結局のところ、自分は時限爆弾のように自己嫌悪をこじらせて、精神を自ら追い込んでひとりになっていき、ぐちゃぐちゃにつぶれていくんだぞ」と、己を追いつめる単語たちが頭の片隅に残り続けている。


わたしたちの思考はコンピューターのOSのような枠組みの中で機能するものであるように常々感じている。そして、マイナス思考はバックグラウンドで動いているあやしいソフトウェアなのだと思う。生きていくために必要なあれこれをインストールするんだけれど、古くなってしまって何かに乗っ取られていたり、抱き合わせで妙な思い込みを押し付けられてしまう。存在を自覚できるときもあるし、気付かないうちにリソースを奪われているときもある。

ずいぶん、ありふれた比喩だな。

あやしいバックグラウンドプロセスが動いているのだけれど、どこのなにに依存しているか分からないため、上手に停止することもできずに投げ出している。そういう生活なのだと思う。
さっさと買い替えてしまえば楽なのだけれども、今の身体を下取りに出すこともできない。攻殻機動隊の新劇場版(坂本真綾が草薙素子の声優をやっている)の中で、サイボーグのボディには部品の保守の問題があり、非純正のパーツがどんどん増えていったり、メンテナンス費用を捻出できずにアングラな仕事に手を出す人々の存在を匂わせる一面があった。
僕の身体は、僕の心は、僕の記憶は、どこからどこまでが自分のもので、どのくらい他人の意図でコントロールされていて、非純正のパーツがどのくらい使われているのだろう。

この世のどこかに僕の身体の製造メーカーがあり、心斎橋かどこかでサービスカウンターを設けていて、コンシェルジュサービスまでやっていたとする。
僕は長年にわたって身体と精神を使い続けているし、ここらでひとつメンテナンスを受けてみたいと思う。
昼過ぎに起きた僕は寝癖を直し、日焼け止めを塗り、比較的しわの少ない服を着て外に出る。7月後半の日差しは猛暑と呼ぶにふさわしく、太陽は純粋で暴力的な熱を地表に降り注いでいる。僕はあらゆる夏を呪う。地軸の傾きを呪い、アスファルトから立ちこめる熱を呪う。道路の隅の方で、干からびたみみずが死んでいる。雨が降るたびに、地上に追いやられていく生き物。生態系をささえるような生き物。黄色い花柄のシャツを着た大阪人が、日傘を取り付けたママチャリを漕いでいる。誰もが、日陰から日陰へふらふらと蛇行して歩いている。

地下鉄で心斎橋駅に着くと、昨今の改修によってずいぶんと変わってしまったことに面食らう。LED電球につや消しのクリル板をつけた暖色のライトが改札を照らしている。寝ぼけたような暖かさだな、と思う。百貨店の地下に描かれた流行の絵柄の看板たちを見ないようにしながら、商店街につながる階段を上って、僕はふたたび地上に帰っていく。大阪の地下鉄のいいところは、大阪市内のわりとどこにでもつながっているところである。僕が大阪にやってくるよりも遥か昔に、たくさんの人たちが大阪の地下で穴を掘っていたのだと思う。彼らが掘った穴を、わたしたちは地図上に描かれた赤色とか青色の線としてしか認識できない。大阪の地下鉄の悪いところは、地下鉄だから必ず地上に出なければならず、階段を上るハメになる点である。このあたりは、御堂筋線も中央線も途中から地上を走ったりするので、必ずしも悪い点ではないのだけれど。あ、あとトイレが奇麗だよね、大阪市営地下鉄。そこは好きだな。

地下鉄の出口から、ふらふらとアメ村方面に向かって歩いていく。最初から、OPA側に出ればよかったな、と思う。三角公園からたこ焼き屋の前の道を南下していき、ちょっと寂しくなってきたあたりで、ようやく地図上の目的地がある。1Fに居酒屋(5年の間に、居抜きで店が3回くらい変わってそうな居酒屋だ)が入った雑居ビルの3Fが、僕が目指す場所であった。なにがサービスセンターだ、と思う。少なくともトイレは大阪市営地下鉄のほうがマシに違いない。すすけた階段を3Fまで上がると、廊下の突き当たりにサービスセンターがあるのが分かる。扉の向こうにクリーム色に焼けたカウンターがあって、奥のほうに棚が並んでいる。納品用の段ボールが階段の脇に積み重なっている。3Fまで階段を上ったせいで、僕の呼吸は乱れている。呼吸を落ち着かせながら、ため息をつく。やれやれ。僕はこんなところに来るべきではなかったのだ。

ところで、僕はため息が多い。ため息をつくと、周りの人間が嫌な顔をするので、いつも「すいません、いまだに地球の空気になじんでいないんです」と冗談を言うのだが、ウケた試しはない。どうして彼らは、他人の呼吸にまで文句を言うのだろう?数十億年前に、好気性細菌がこの世界に誕生し、ここまで進化してきたことが関係しているのかもしれない。

カウンターの奥には、やる気のなさそうな男が、伝票を確認したり、発送する段ボールと突き合わせたりしている。個人情報の書かれた伝票があちこちに散らばっている。僕はまたため息をつきそうになる。カウンターの向こう側の事務椅子に、男が脱いだスーツのジャケットが引っかかっている。頭上で、蛍光灯がちらついているのを感じる。フリッカー。周波数が合わないんだっけ。せっかくここまで来たんだから、と何度も僕は自分に言い聞かせる。せっかくここまで来たんだから。

「15時に予約をしていたものですが」と、僕は男に声をかける。

男は棚の奥の方で、伝票と棚を何度も照らし合わせるような動きをしている。伝票から顔を上げて、壁に掛かった埃だらけの時計を見る。伝票を棚の3段目に置いて、僕のほうにやってくる。たぶん、このあと伝票を置いた場所を忘れて、あちこちを探し回るのだろう。
彼はコンピューターを操作し、僕が送った予約メールを確認している。そこには、僕の身体の製造年月日と、これまでに感じてきた不調が書かれている。まだパーツは残っていないか、有償でもいいから修理できないか、最短納期はどのくらいか。などなど。
男は僕の肉体に刻まれた固有番号と、ぼろぼろの保証書を一瞥してからこう言う。
「この機種はもう部品の保管期間が切れていて、うちでは修理できないですね。それに、あちこちをご自身で触ってらっしゃるでしょう?ご自身で改造された機体については、修理の対象外なんです」

他にも、経年劣化はどうのこうのだとか、リコール機関をすぎたパーツがどうのこうのと男は言う。僕はため息をつく。そんなことは全部分かっているんだ。全部、わかっていて、ここにいる。目の前の男は、僕が出会った人類の中では、まだフェアなほうなのだと思う。彼はただ忙しすぎるのだ。彼の仕事は伝票と部品発送の仲介で、サービス窓口はあくまで片手間の仕事のひとつなのだ。この後、出荷締め時間までに彼は段ボールの発送をしなければならないし、サポート対応に関する報告書も書かないといけない。さっき棚の上にぞんざいに置いた伝票を探さなくちゃいけない。
雑居ビルの細い階段を、下りていく。7月下旬の、15時の日差しはまだ高く、空気はやわらかいかたまりのまま、僕の皮膚の外側をただよっている。息を吸い込むと、生暖かいかたまりが、肺に吸い込まれている。居酒屋のハッピーアワーがはじまるまでは、まだ時間がある。

いつか、自分がアスファルトの上で干からびている姿についてよく考える。周りの人々には僕が見えておらず、僕はゆっくりと干からびている。楽しかった記憶とかよくしてくれた人とか、そういう走馬灯だけを必死に回想しようと試みる。みみずがいる土はいい土なのだという。わたしが生きていることで、この地表は少しは良いものになったのだろうか。

ここのところの心身の不調は被害妄想のようなものが多く含まれていて、自身の被害妄想を「客観的」にとらえるように努めている。
ぐるぐると回るマイナス思考が円周の状態で僕の脳内に組み込まれている。遠心力だかなんの力だか分からないが、そのサーキットは周回を繰り返しながら力をもち、あらゆる認識をその暗い渦に引きずり込もうとするらしい。


自身を客観的に見つめることによって、自身は分析的可能な対象になっていく。瞑想の中で、第三者視点を想像していくように、自身とは自身の身体の外側にあるものであり、この身体を通りすぎている痛みは、自身とは無関係のものである。何度もそう思い込もうとする。一連のプロセスをまた客観的にとらえようとする。それらはただのメタファーであり、自身とは複合的な物であると信じたくなる。皮膚に入力された刺激が、脊髄によって反射しアウトプットされる。脳に刺激が伝わるとき、脊髄反射によって世界は書き換えられている。僕の脳は反射によって書き換えられた世界を認識し、認識の平面で揺れ動いている。
「狂わないようにしないといけない」と信じる感覚だけが、僕が狂わない動機であるようにも思う。向こう側に跳んでもいい、と囁く臓器は、僕の認識のサーキットには含まれていないのだ。

僕は、いまだに地球の空気に慣れていない。

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