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森鷗外の「あそび」
森鷗外の「あそび」という短編の中に、今の自分のあるべき心境に近い記述があった。
木村は文学者である。
役所では人の手間取のような、精神のないような、附けたりのような為事をしていて、もう頭が禿げ掛かっても、まだ一向幅が利かないのだが、文学者としては多少人に知られている。ろくな物も書いていないのに、人に知られている。
この男は何をするにも子供の遊んでいるような気になってしている。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないのもある。こんな為事はその詰まらない遊びのように思っている分である。役所の為事は笑談ではない。政府の大機関の一小歯輪となって、自分も廻転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それを遣っている心持が遊びのようなのである。顔の晴々としているのは、この心持が現れているのである。
もちろん自分は文学者でもなければ文学者として人に知られているわけでもない。しかしそういうものになりたい気はしている。つけたりのような仕事をしていて、頭が禿げかけてきてもいっこうに幅が利かないのに、ろくなものを書いていないのは同じである。
しかしこの主人公「木村」は、仕事においてはうだつが上がらないわけではなく、仕事場に早く来て、晴れ晴れとした顔で次々とこなしてゆく、どちらかといえばデキる男なのである。それはすべてをあそびの精神でこなしているからだという。仕事を早めにこなしていきたいという心構えは自分も持っているつもりだが、それは重苦しいから早く軽くしたいという気持であって、とてもあそびとしてすいすい消化するという境地には至らない。
「木村」が鷗外自身を模していると考えた場合に、文学史上の「余裕派」と言ったら『草枕』などに代表される初期漱石の独壇場かと思いきや、これを読むと、なんの鷗外だってかなりの余裕派じゃないの、と思える。
なんにせよ、自分がいつも試されているかのような器量の狭さから脱却して、すべてをのらりくらりとかわしながら、あそびだと楽しめる心のありようを会得したいものだと考えたりする。プレッシャーに弱くて、人の顔色を窺い、いつまでも腰が据わらずに、どこに座を占めるべきかわからない浮雲のような気分に陥っては特に。
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