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書くことでスッキリするのか

 文章を綴るというのは難しいことで、自分に関して言えばいくら書いても、いつまでたっても上手くならない気がするし、なんなら質も下がっているような気さえしてくる。よく考えたら自分がこのnoteに書き始めた原点というのは単なる嘆きや思いつきの垂れ流しで、大した内容なんてなくても良かったのであった。ちょっと調べて面白かったことをシェアしたり、人生の苦悩めいたどうしようもないことを吐き出して優しげなコメントのひとつでもいただければ嬉しいというような気分でいたのである。私だけの言葉であったものを放り出すことで、みんなの言葉として揮発させる、あるいは公共の空間・時間に溶かし込むのが文章を書くということの意義ではあるが、時には誰も拾わない閉じられたままの言葉があってもいいのかもしれない。

 モーニングノートといって、朝の思いつくままの考えをノートに書いてみることがアウトプット促進の効果があると聞いたので、試しにやってみている。毎日朝起きて、勤めに向かう準備の合間を縫って、ノートの1ページ分を埋めるように書く。流れるように書いていく、といえばいいように聞こえるが、要するに殴り書きである。文字数にしておよそ1,300字くらいだろうか。B5版ノートの1ページ分書くのに30分程度はかかる。考えたまま書けば良いというのだが、思考を深めずに書いたところで印象の羅列が並ぶだけであり、頭から出てくる抽象イメージに手のほうがついていかないこともある。考えずに書くというのがこのノートの要諦で、考えを放出することで頭をスッキリさせるのが目的のひとつである。これは先日私が投稿した、書くこと=排泄というような思考にもつながることで、文字にすることで自分の中の老廃物をデトックスするという発想である。

 このモーニングノートを、実はもう1ヶ月半ほど続けているのだが、正直これが何らかの効果をもたらしているのかどうかわからないで困っている。思考がデトックスされたような気もあまりしないし、スロースターターな私は、1ページを書き終わってから書くべきことを思いついたりして、頭の中にはいつもなにかモヤモヤが残る。書く内容は毎回似たような人生のお悩みというか、まさに今の環境で頭の中を占めている思考なので、確かにタイムリーに何を考えているのかが形になってよくわかるが、どういう有用性があるのは今ひとつわからないままである。自分から自分に課題を毎日課せられているという感じで、書ききったときには、ああ今日も達成したという充足感はあるといえばあるが、書くために考えを無理に絞り出すことの効果はいかほどか。書くのもある種の運動ではあるから、脳と手の活性化にはつながるのかもしれない。これが意味をなすのは後から読み返したときだろうか。過去の自分にアイデアをもらえるということがあるといいのだが、いくら蓄積しても、昔から自分は馬鹿だったという事実だけを突きつけられるだけに終わるのかもしれない。誰でもそうかもしれないが、自分にとっては、学問においてはある発想により知識が整理されてゆくのが快感なのであり、モヤモヤしたままの姿が例え真実だったとしても、それをそのまま受け取ることはあまり気持ちが良くない。

 個人的なお悩みの解消法として、書き出すという行為が推奨されることがある。心の中のモヤモヤが吐き出されて、整理されてスッキリするというものだが、これもまた書くということのデトックス的な性質に着目したものである。無形の思考を見える化することで心が整った気分になるわけだが、果たしてそうなのかなと少し疑わしく思う。書いた後のある種の達成感のあとに来るのは、こんなわけのわからぬことを書いてしまったという気恥ずかしさと、これは本当に自分の思いの具象化なのかという疑いである。心のうちを曝け出すといっても、話すことと書くことはずいぶん違う気がする。話すことでスッキリした経験はあるが、書くことではどうにもスッキリしない。それは話し言葉と違って人に受け取ってもらえないからかもしれない。書くことは自己完結できて、必ずしも受け手を要しない。また、誰にも拾われないだけに、自分の中では書くことが特権化されているのかもしれない。書くことは特別で、苦しまなければ本当のことは書けない、そんな簡単にスッキリさせてくれるものではないのだという特別感が、むしろ自分をムキにして、書くことに駆り立てているようでもある。


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