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「たび」に出る、ということ。

 最近、自分を見つめる余裕ができた。できてしまった。
 社会人も四年目になり、所属も仕事も変わらなかった。もちろんその分仕事は慣れた。要領よくこなせる自信もあるし、それなりの戦力である自身もある。けれども周りがみんなどこかに行ってしまう中で、僕だけが自分の場所に残ってしまったがゆえに、かえって生まれてしまった「余裕」。冷静に自分を見つめだすと、途端に「自分」が何なのか、わからなくなってしまった。

 このまま年を取って、消え去るだけの人生なのだろうか。生きてきた痕跡をなにも残せないままで、去っていかないといけないのだろうか。
 会社と家を往復するだけで、若さが色あせていく。溢れんばかりの若さは、文字通り溢れて、流れて、気が付けばどこにも残らなくなってしまう。日が昇れば目を覚まし、一日働いて夜は眠るだけ。たまに「ぜいたく」と称して、昼からビールを飲み、弁当作りをやめて外にお昼を食べに行く。そんなことをしているうちに、一週間が過ぎる。ひと月が去っていく。気が付けば、働き出して四年たった。

 そんな時に、図書館である作家さんの本を手に取った。「悩むなら、旅に出よ」。いいタイトルだった。
 そうだ。旅に出てみよう。今が一番若い。悩んでいる暇はない。着替えと財布と、本が一冊あればいい。ザック一つで、旅に出よう。

 かつて若者たちは「自分探しの旅」と言って、県内、国内、地球内をさまよったらしい。小さいころ、母親の口から洩れた一言が、頭に残っている。
「でもね、本当の自分なんて、どこにもないのよ」
 きっとそうなんだろうと思っていた。もっと現実を見て、堅実に生きるのがいいと思っていた。
 でも、今はわかる。きっと、若者たちは堅実に生き過ぎていたのだ。頑張って、しゃにむに勉強して、働いて、急に自分のことが分からなくなってしまったのだ。だから、旅に出たのだと思う。どこにもなくてもいいから、「自分」を見つめる機会が、欲しかったのだと思う。

 不思議なもので、旅と言えば汽車と相場が決まっている(はず)。古の哲人たちも、22世紀の未来少年たちも、きっと鉄道に揺られながら自分を探していたのだろうし、これからもそうだろう。

 目的は何にもない。どの町に行ってもいいし、どの駅で降りてもいい。何を食べてもいい。「やらなければならない」ことなんて、何にもない。
 けれども、宿を決めないのは非常に怖いということは、過去の経験から脳髄に刷り込まれているので、予約だけは済ませている。プロは足の赴いた町で宿を探すと聞いている。そんな度胸を身に着けたいものだ。

 連休明けて金曜日は仕事。短いけれど明日から、期間限定の旅を始めよう。

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