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(1)魚人の家

 川が氾濫したのなんて何年ぶりだろう。何十年ぶりかもしれない。実家の近くの川はむかしはよく氾濫していたって聞いたことがある。
 仕事帰りの真っ暗な道の真ん中、街灯の光に照らされて、全裸の男が寝ているのが見えた。水溜りの上で寝ているので、そのままではよくはないとおもわれたが、その日はそんなに寒い日じゃなかったので、関わりたくないということもあって、通り過ぎることに決めていた、数歩前から。見てはいけないとおもいつつ好奇心から横目で追うと、ただの人間ではなくて半魚人だった。目が合ってしまったような気がしたので、あわててそらしたけど、きゅうに早足になるのは不自然だし敵意を抱かれかねないので、なるべく変わらない歩調のままを意識して歩きすぎようとした。
 でもつぎの街灯を通りすぎたときに、家屋の塀に影がふたつ伸びて流れていくのを見て気がついた。このひとあとをつけてきている。わざとだろうか、もう少し離れてあとをつけてきたなら恐ろしいかんじもしたのだろうけれど、友だちのような近さでうしろからぴたぴたと裸足の音をたてながら追ってくるので、怖くはなかった。それでも関わりたくなかったので、気付いていないふりをしてまっすぐまえを見たまま歩いた。
 マンションが見えてきたころ、どうしようか迷った。このまま帰ると家がばれちゃう、近くのコンビニに入ってやりすごそうかな。いや、この調子だとコンビニのなかまでついてきそうだなこのひと。エレベーターを使うのはやや危険と思われたので、外階段を上りながら思った。鉄の階段はパンプスで歩くと音が大きい。うしろからはびちゃびちゃと音がする。
 三階に着いたときには、一日の疲労がどっとおそってくる。自分がこんなに雑な人間だったとは思わなかったと毎日のようにおちこむ。とにかくだれにも見られたくなかった。こういうところを見せてしまうからすぐ飽きられてしまうのだ。
 鍵を開けるときなどは、もはや横から覗き込むようなふうにわたしのそばにそっと立って見ていた。それでも、いろいろと疲れていたので、もう面倒なことは無視するのが一番だと思った。なにが目当てかはわからなかったが、攻撃されてかなう相手とは思えなかったので、本人の意図に逆らうようなことをすると殺されるかもしれないし、うしろからついてきやすいようにドアを少し大きめに開き、電気をつけて靴を脱いで、そそくさと奥の一間にあるソファに体を落とした。ドアがひとりでに閉まる音がしたときに、キッチンのフローリングよりこちらに入ってこられることへの嫌悪感がふと思い出したかのように大きくなった。
「ちょっと待ってください」
顔を見ないようにして声をかけると、冷蔵庫のまえでその人影はひっそりと立ち止まった。言葉は通じるようだった。どうしようか。
「お風呂場にいてもらえますか」
ぼたぼたと水滴が落ちる音がしていた。その人は足をひきずるようにしてバスルームに入ってゆき、空の浴槽のなかに身を納めるような音をしばらくさせていたが、体勢が安定したのかそれからは静かになった。
 とたんにまぶたが重くなってたまらなかった。このまま寝てしまおうと思って、ソファに体を倒したけど、気にしないようにとつとめても、部屋のなかに知らないだれかがいるというのはやっぱり落ち着かない。魚だから、もしかしたら水がいるかもしれない。川にいたのだろうから、やはり真水で平気なのかな。でも水道水は塩素が入っているからだめらしいし。
 カーテンの向こうが真っ白に光っていて、まぶたが熱くて目が覚めた。浴室からすすり泣く声が聞こえて、昨日の現実の続きだとすぐにわかった。ソファで寝たせいで痛い体をひきずりながら、どうせベッドで寝ても毎朝からだが痛かったことに気がついた。浴槽で寝ていた魚人はもっとヒレのあたりが痛かったことでしょう。
 なぜ泣いているのかたずねると、魚人はつたないことばで川に帰りたい、もといた場所に帰りたい、友人や家族に会いたいと主張してきたので、わたしは川のなかで彼の妻や子供が待っている図を想像しながらも、ちょっとそれはおかしいんじゃないかとも思った。なにをしにきたのか聞いてみると、川があふれたときにうちあげられてしまい、もう川に帰れないと思って、自暴自棄になっていたのだという。人間をみくびっている、川への道ならわたしが教えてあげるのに。
 先日決壊した堤防を越えて川のそばまで歩いてくると、冷たい風が懐かしかった。子供のときは河川敷以外に遊び場がないのでよく川に来たものだった。そういえば何年ぶりだろう。実家にすらもう何年も帰っていない。川のむこうがわは霧がたちこめていてなにも見えない。川岸に立った魚人が家は向こう岸のほうだと思うというので途方にくれていたところ、霧のなかから渡しの舟が波音とともにあらわれた。櫂をとる男に言われるまま、わたしたちは小さな舟に乗った。わたしまで乗るのはおかしいのではないかと思いながら、霧のなかにしろく遠ざかっていく岸をながめた。
 なんでこんなところで渡し舟なんてやっているのかと聞いてみたが、その漕ぎ手はなにもこたえずににこにこしているだけだった。そしてその顔をずっと見ていて気が付いたことだが、その人は多分目が見えないらしかった。ためしに変顔をして笑わせてみようとしたがちっとも表情を変えないまま舟をこぎつづけていたので、やはりそうだと思ったけど、にらめっこが強いタイプの人かもしれないので、確信にはいたらなかった。
「目が見えないんですね」
「そうですね、でも川を渡りたい人の声は必ず聞こえるので、困っていません」
「目が見えないのに舟に乗れるんですね」
「もう少し気をつかってもらえますか」
「ごめんなさい」
魚人はうつむいたまま無言なので、家に帰れるというのにうれしくないのかなと思って表情をうかがおうと顔を覗き込んだら、寝ていた。きっとあの小さい浴槽じゃ、やっぱりよく眠れなかったんだろう。
 やがて、霧が濃くなっていくのと同時に、わたしも盲になっていくのを感じた。ぼやけていく視界のなかで、知るはずのないお父さんの顔が霧の向こうに見えた。魚人の家はまだまだ先らしい。

五本指ハムスター✌🏻🐹✌🏻