「私」という表現不可能なものへ――欠如態として真面目さ――

知っている。
初めからこの試みには、挫折という終結が織り込まれている。
それでもなお、「私」を物語る欲望を留めることが許されない瞬間があるとすれば・・・

私は、真面目――あらゆる性格規定の欠如態としての――という性格規定を受け容れ続けている。
私は自分から人を誘うことはあれど、人から誘われることがない。それはこの欠如態としての真面目との共犯関係の中に身を置き続けているからにほかならない。
真面目とは、空気であり、人畜無害であり、数合わせにはなる・・・・の言い換えである。その座に居続けることを容認する限り、私はあらゆる人からの拒絶を受けることを回避し続けられる。
私は、人の核心に入り込まないことと、自分の感情を抑制する禁欲的な振る舞いとを自分に課すことで、人から誘われることのない代わりに、こちらから誘えば来てくれる程度の人畜無害な繋がりを維持し続けている。

私は二つのことに勘づいている。
私が真面目との共犯関係を利用していることを、人は薄っすら感じ取っていることと、
真面目を受け容れる素振りをすることで、私が真面目であるという、差し当たりの・・・・・・事実から目を背けていることとに。

人はズルい生き物だ。大半の人は根底において真面目な存在でしかないのに、まるで自分が不真面目であるかのように振る舞い、親しい間柄になりたい他人にも、何らかの不真面目さを要求する。それを人々は人間味と表現するのだが、まったくもって欺瞞な表現だとしか思えない。本当の不真面目さとは、社会では生きられないということである。人は自分自身の真面目さから逃れることなどそうそうできないのに、まるで逃れることができてるかのように周囲にアピールし、確かめ合う。

親密さとは、真面目である存在が不真面目さを虚飾して見せあうことから始まる。ゆえに、そこに馴染まない個体の真面目さに、他の個体は目ざとい。彼らは真面目な個体を「真面目キャラ」として受け入れる素振りをしつつ、彼らの真の姿を映し出すその個体をどこか目の上のたん瘤だと思っている。しかし、そんな目の上のたん瘤を端的に否定することは自己否定に等しいのだから、けっして邪険にはしないのだ。

個性があるなんて幻想であり、ほとんどの人間は、すべての欠如態である真面目に収斂する。なにか確たる根拠があって言っているわけではないが、人にはそれぞれの住む世界があり、その世界において平均的とされるところからずれている人はほとんどいないというのは、穏当な直観だと思う。そしてこの結論から取るべき選択肢は二つある。一つは、その真面目さに向き合うことである。既存の社会で生きられる程度には、社会不適合な特徴をもっていない自己であることを、自覚し、自足することだ。もう一つは、既存の社会での生きづらさを抱える覚悟を持って、真面目から逸脱しそうな種を見出し、育てることである。

「真面目を受け容れる素振りをすることで、私が真面目であるという、差し当たりの・・・・・・事実から目を背けていること」
私のような人間は、逸脱の種を抑圧している可能性が極めて高い。なぜかというに、私が不真面目さを演じないのは、私の周りで開かれる不真面目のお遊戯会をしらけさせてしまうほどの不真面目さを潜在的に有しているものの、その恐ろしいまでの不真面目さに足がすくみ、真面目で自分を塗り固めざるをえないからである。「差し当たりの・・・・・・」とは、以上のような意味を暗示している。真の不真面目さの蓋を押さえつけている私は、彼らの不真面目さが虚構であることをよく知っている。そのような遊戯会場に参加することの虚しさを感じ取ってしまった私には、そのようにするしか方法がないのである。

「私」という人はこの世において、今、ここにしかいない。しかし、私のような・・・・人は一人であると決めつけるのは早計に思う。自分語りという営みには、明示的であれ、暗示的であれ、呼びかけという契機が必ず含まれているが。このもったいぶった自分語りの文章の最後も、私のような人間にあっけらかんと呼びかけることで結びにしたい。

不真面目の種を捨ててはならない。いつ芽を開かせてもいいように、温い不真面目がはびこる世間では、真面目を演じ続けよ!


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