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誰かのScaffoldingになることを願って

「どうして僕はここにいるのだろう?」
「江戸時代には確かに僕はいなかった。その時に僕はどこにいたのだろう?」
「僕がいなくても江戸時代は確かにあった。ということは、僕がこの世からいなくなっても、世界は存在し続けるのだろう。」

子どもの時は一人が好きで、そんなことを考えながらぼんやりと空を見上げたりしていた。
「僕が見ている空の色は、みんなにも同じ色に見えているのかなあ?」
作家は処女作にその後の作品の全てが込められているという。もしかしたら人間も、子どもの時に考えたことが人生のベースになってずっと続いているのかもしれない。


こんな書き出しで初めてのnoteの記事を書く奴は、一体誰だ?と思う人もい
ると思うので、簡単に自己紹介をしておきたい。
僕は大阪で公立中学校の教員を35年間勤めてきた。専門教科は国語科で、とある研究会に所属し、共著ではあるが書籍も何冊か書いてきた。
僕が教師になった頃は学校は大荒れに荒れていて、毎日がある意味命がけだった。僕は子どもを力で抑えつけるのではなく、「自治の力」を育てていくことでしか、目の前の「荒れ」を乗り切ることはできないと考えていた。まだ20歳前半だったけど。
そこで生活指導の研究会に入って、集団づくりの方法や子どもの発達の筋道、現代の子どもをどう理解するか、ということを必死で学び、学校での教育実践に生かしてきた。

本当に子どものためになること、子どもの要求に根ざした活動を中心に、場合によっては職員室で孤独になろうとも、力の限り仕事をしたきたと思う。
教室を使っての劇、模擬裁判、夏の縁日の再現(ヨーヨー掬いやザリガニ釣りまであった)、体育館の舞台を使っての20分間のロックコンサート、よさこいソーランで体育館が地響きするほどの踊り、運動場を使って教室4つ分の広さの巨大迷路…

今から考えたら、よくこれだけのスケールのことを僕と子ども達40人でできたものだと思う。本当に僕の教師生活は子ども達に支えられていた。「指導するものが指導される」ということは教育の大原則だが、僕は子ども達のおかげで「教師」になれたと思っている。
もちろん、いいことばかりではなかった。その当時の私の教育実践も何冊かの雑誌に書き残している。


幾つかの学校を転勤し、40歳の半ば、僕は学年主任を務めていた。その時の僕は学年づくり、学校づくりをステージに仕事に取り組んでいた。自分のクラスが一番!ということよりも、学年や学校の若手がやり甲斐をもって仕事ができる職場を作ろうとしていた。
そうなると、どうしても管理職と衝突することが多くなる。元々自分が正しいと考えることは、少数派になろうともやり通す方だった。特に校長との相性が悪く、何かにつけて校長室に呼び出され、「これはどんな理由でやっているのか」「あれは止めるように」と細かく指示された。
もちろんそのまま受け入れることはなく、一つ一つ反論していたのだが、そのうちだんだんと体調が悪くなり始めた。朝になると気分が重くなり、体が動かない。這うようにしながら何とか出勤していたが、それも思うようにいかず、仕事を休むことが多くなった。
ある日、校長から呼び出された。
「遠野先生、最近休みが多いね。実は、国語の授業が抜けることが多いと保護者から苦情が来ているんだよ。学年主任が負担になっているんじゃないかな。降りた方がいいんじゃないか」


その日を境に、僕は出勤できなくなった。夜もほとんど眠れない。妻の運転する車に連れられて、何とか心療内科を受診した。主治医の診断はこうだった。
「鬱病ですね」
その時から、僕と「鬱病」との長い付き合いが始まった。どんどん調子が悪くなり、布団から起き上がることもできない。歯を磨くことはおろか、風呂に入ることも億劫でできず、髪の毛は伸び放題。一日布団を被って寝ている状態だった。
鬱病に効果のある薬はいくつかあるが、なかなか僕に効くものがなく、中には服用した結果、「死にたくなるような」酷い副作用に苦しめられた薬もあった。
いろんな薬を試した結果、やっと僕に効果のある薬が見つかったが、発売されたばかりの新薬でとても値段が高く、ジェネリックも当然ない。月に薬代だけで万単位のお金が飛んでいった。
動くことすらままならない僕に代わって、妻がいろいろ調べてくれて障害者の「自立支援医療」を申請することにした。必須ではなかったが、同時に「精神障害者手帳」も申請することにした。生活のために藁をも掴みたい気持ちだった。
両方とも申請が通り、手帳の等級は3級だった。薬局の窓口で支払う薬代が1/3に減った時の感銘は今でも忘れられない。「福祉が僕を守ってくれている」と実感した瞬間だった。
結局、休職は3年に及ぶものになった。最後の方は山歩きをしたりするくらいの元気を取り戻せていた。久しぶりに職場に復職した時の「やっと学校に戻って来られた」という感慨は忘れることはできない。


件の校長はとっくに退職をし、新しい人が校長になっていた。その校長から次のように言われた。
「遠野先生、特別支援学級の担任をやってみませんか?」
実は、3年間の鬱病生活の中で僕なりにいろいろ考えていることがあった。少しでも生活を守る力になればと取得した「障害者手帳」。これが僕を一定守ってくれていることは確かだ。同時に自分の人生を振り返ってみると、家族の中にも精神疾患のものがいる。その環境の中で、僕自身かなり苦労して大人になってきた。
もう国語教育や集団づくりは十分やりきったという自負もあった。まだ数年残っている教師生活、最後は「特別支援教育」に打ち込むことが自分にとっても価値あることではないか。
そして今、僕はここにいる。


長い自己紹介になってしまったのは、これから始めようとしていることの基本的な立ち位置を、自分なりに明確にしておこうと思ったからだ。
「scaffolding」(スキャフォールディング)、「足場かけ」「足場作り」という意味の、本来は建築現場などで使われる英語だが、最近では教育の世界でも使われるようになった。

僕はこの言葉を「特別支援学校教諭免許」を取得する学習の中で知ったが、とても意味のある言葉である。大阪の片隅で35年間教師をしてきたが、僕はずっと子ども達が自分の力で自分らしく生きていけるように「足場作り」を続けてきたのかもしれない。もちろん、子ども達はもう卒業し、その足場は不要なものとして消えてしまったが。
自分自身が障害者になった今、お互いに相手の「足場作り」をしていく社会を作っていくことが大切ではないかと思っている。障害のある人もない人も、相手が自分の力で自分らしく生きていくための「足場」を作っていく世界。そして、どんどん上へ、右へ、左へ、斜めへ進んで行く世界。そういう世界を、僕は今夢想している。

「scaffolding」、僕は人生のステージを一つ上がります。

©Evening_tao - jp.freepik.com


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