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【散文過去作】梅雨のまの存在

 不毛とはそれ自体がひとつの喜びでもあると何の気もなしに考えた。ちょうど平日の昼下がりの井の頭池のそばを歩いていたときのことで、空一面を覆う雲の向こうに浮かぶ太陽は、旺盛に繁る藻のために暗く色づいた水の上でも眩しく、より神経質そうに輝いていた。ほんのりと地表に立ちこめた暑気を心もとない蝉の声が伝っていき、ひと足早い夏の訪れを告げるのに、連日のぐずぐずとした雨もよいに倦みつかれた気持ちがようやく少しばかりやわらいで、けれど梅雨はまだ明けてはいなかった。明日からはいよいよ本格的な暑さと、再びの雨とが一緒くたにやってくるという。そんななかでのもの思いだ。地に足のつかぬ高揚と、風穴のない密室におしこめられたような憂鬱さとが千々に入りまじる有り様は、この季節の陽気をそのままに映しているようでもあった。年や年度の切り替わりの影響を除けば、自殺者が最も多くなるのがこの季節だという話も聞く。わが身にしてもよくもまあ、毎年飛び降りずに済んでいる、とじんわりと熱を帯びた欄干に凭れながらわざとらしい冷笑を水鏡に落とす、そのナルシシズムも途切れることのない雨の余韻に引きだされてきたものか、それともただの若気か。
 木々の黒い幹が優美な弧を描いてその根元より低いところへ垂れさがり、濃い緑の葉群れのさきを時に口づけさせている水面には、無数のアメンボが慎ましやかな波紋を広げ、更に向こうの方からは貸しボートで遊ぶ若いカップルや、友達連れの賑やかな声が響いている。ごく通常のオール付きの流線形のボートよりも、白鳥の形を模した足漕ぎのボートの方が人気らしく、いくつもの白い、やたら大きな船体がゆっくりと動きつづけているのが見える。料金は三十分で六百円だったか、七百円だったか。此方の橋からはやや離れたところにある、その何ということもない景色にも、懐かしさともの悲しさとがぼんやりとまとわりついていた。あくまでも、ぼんやりと。
 もしわたしの生まれてきたことに過ちがあるとするならば、その核心はこのぼんやりと、という部分にあるのではないかと思う時がある。何をまのあたりにしても感情が遠い。成程、美味しい珈琲に巡りあえれば幸せになるし、駅のホームに吐瀉物を見つければ不愉快になる。人に好意的な言葉を掛けられれば簡単に舞いあがるし、逆に叱責されれば数日は引きずる。しかしそのすべてが喜びや、悲しみの形を得るよりもさきにわたしの手から零れ去っていく。わたしはいつも空っぽの自分の手を眺めている。その空っぽの手の姿もまた曖昧だ。かすかに黄ばんだ皮膚の下に、淡紅色と青灰色の二種の網目が張りめぐらされているらしいのは分かる。しかし見つめようとすればするほど、その浅いお椀型の掌の中心はのっぺりと平らになって、五本の指と熱っぽい外気の境目はほろほろとほつれていく。淡い雲のベールにさえぎられて、やはり鋭さをなくした光線とまじりあって、やがて色さえ希薄な、何かがそこにあったらしい、という程度の存在の気配だけがとりのこされている。その向こうに、眉を少しひそめた自らの顔が照りかえす。それがどのような意味を含んだ表情なのかも分からない。それが本当に、自分の顔であるかも分からない。はて君はどうしてそんなところで所在なさげにしているのだ、と首を傾げると、その顔も同じように首を傾げかえす。はてしもなく気持ちの悪いことだと、まだまともなかたちを保っているらしい頭の片隅が訴えかけるが、それとて我がこととして受けとめるべきわたしがほころびかけているのであれば、遠い風のさわぎとも、足もとからかすかに昇る水のにおいとも見分けがつかない。何となく喉のあたりにえずきがあるな、と考えて、幼心に蜜を吸いあげてみようと口に含んだ躑躅の花の、思いがけない青ぐささのせいにする。しかし最後にそんな子どもじみた真似に走ったのはいつのことだ。たったの一年や二年前のことではないし、この季節に躑躅の花が咲きのこっていたためしもない。壊れている。わたしというものが、壊れている。というよりも、はじめからいなかった。ついに何もかもが終わるまで、たとえば幾重にも重なりあう息や鼓動や、水を嚥下するごとの喉の動きや指先の震え、至るところから溢れた晩秋の落葉の静かな囁きに冬の枯れ木の呻き声、踏みつぶされる霜柱の軋みに大空の遥かな高みを渡っていく風の吠え声、それに答える電線のブゥーンという唸りやようやく土の上に小さなつぼみを出したホトケノザの揺らめきや、膨れあがった雲の重怠い白さや、不意に此方を振りむいた鳥の得体の知れぬまなざし、二本の腕に抱きとられた赤子のまだ宇宙だけを映した昏い瞳にいくつもの言葉と鏡とがかざされ、やがて丸い手足が地を捉えて這いまわるようになり、ついで二本の足だけで立ち歩き、その頃には自らが名前で呼ばれることにも、己以外のものを名前で呼ぶことにも慣れはじめた何かがいつしかそれらを慈しむようにも、あるいは害し、害されるようになり、例外なく血まみれとなる二本の腕でまた新たなる名前をこの地上へと降ろしていき、そうこうするうちに季節が幾たびも移ろい、山並みや海岸線は姿を変え、地図には新たな国の名前とその境界が書きこまれては、時として地図もろともに焼き捨てられ、どこかでは産声と断末魔が一緒くたに響きわたる、その果てしもない繰りかえしの繰りかえしが終わったあとまでわたしはいないままでいる。
 なのに、それをあるのだ、と仮想しようとしたことこそがいうなればわたしたちという過ちの大本だ。水鏡へと溺れ死んだナルキッソスこそが、実のところは清らかに正気だったのかもしれない。
 そしてわたしはといえば、もう何度も端の欄干から駅のホームから、己が部屋の窓から身を躍らせる様を思い描きながら、まだ飛び降りずにいる。その軽やかな夢の像にこそ、わたしというものの最後の寄る辺があるかのようにしっかりと抱きしめたまま、いつまでもまみどり色の水のうえを走る煌きや、自分とさほど年の変わらない人々の燥ぐ姿や、遅々とした雲の色あいの変わりゆきをじっと眺めている。そうして明日へと進んでいく。
 わたしとはひとつの過ちだった。わたしはけして救われることはない。けれどもそれを救われない、と考えること自体にまだなにか、新しい意味がふくまれてはいないだろうか。
 そんなことを思っているうちに、梅雨の晴れ間はあっけなく通りすぎていく。

                   2019.7.17執筆
2024.5.19 文学フリマ東京にて発刊『夢見ヶ丘』収録予定

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