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香嶌一伽さんへの手紙:心のぐつぐつを消化できるようになったきっかけ

いままでお話ししたことはなかったけれど、Twitterタイムラインではよくお見かけしていました。

香嶌一伽さん、こんにちは。

一伽さん、私のnote『最凶タッグ誕生 ーいじめ当事者たちの邂逅』を読んでくださってありがとうございます。

「かっこよかった」なんて照れる。

『心の中のぐつぐつ』について、はるさんとお話ししていた一伽さん。

おふたりが『ぐつぐつ』の扱いに悩んでいる様子をみて、おもわず乱入してしまいました。(もともと、私のnoteを発端とした会話だったからいいかなと思って)

これに対し「ぜひnote読みたいです!」と言ってくださったので、このお手紙を書いています。


『心の中のぐつぐつ』いじめに遭った私も抱えていました。
いじめなどで人からひどい扱いを受け続けると、嫌な気持ちを上手に吐き出せなくなって、どんどん心の中に溜まっていっちゃうんですよね。
弱っている者同士なら弱音を吐けるときもあるけれど、本当にこの嫌な気持ちを聞いて受け止めて欲しいのは私を踏みにじった強い人たちなのに、って、でも、どうせ聞いてくれないし、って。ぐつぐつぐつぐつ。
(私のぐつぐつはこんな感じでした。)


その『ぐつぐつ』を、抱えず捨てられるようになったきっかけがありました。

『ぐつぐつ』を抱えたまま大学へ進学した私は、友人に誘われるまま映画部に入りました。
映画部には、キラキラの美男美女から鬱屈した雰囲気をまとった映画オタクまで(鬱屈とか言ってごめんなさいN先輩)、いろんな人が所属していました。なかなか多様性のある部だったと思います。

いろんなタイプの人がいたのですが、共通点がありました。
みんな「せやろ」と「知らんがな」のマインドを持っていたのです。
人から褒められれば謙遜することなく「せやろ」と胸を張り、不当な扱いを受けたときには「知らんがな」と切り捨てる、はたから見ると、ちょっと図々しいまでの態度。
それまで属していた集団にはあまりいなかったタイプが、ひとつの部室に密集していました。
このネズミアイコンの人みたいな、ふてぶてしい態度の人です。一伽さんの周りにはいますか?

映画は人を巻き込みながら作る創作物です。(最初から最後までひとりで作ることもできますが、表現の幅は狭まります。)
だから、みんな、すごい勢いで迷惑をかけあって作っていました。
我を通して、通して、通しまくっていました。
キラキラと陰鬱のカースト制度などなく、みんながみんな主張していました。
そんな環境で映画を作っているうちに、いつの間にか、私も「せやろ」と「知らんがな」に染まっていました。
そうしたら『ぐつぐつ』が消えちゃったんです。
目の前の人と主張をぶつけ合うのが、楽しくなっちゃったから。
私の主張を受け取って投げ返してくれる人がいて、こんなに楽しいのなら。
ぶつけられない主張など持っていても邪魔、捨てちゃおうって。

noteでも似たような景色があります。
noteも、誰かと書くことができるのです。

私とあきらとさんとの間でやりとりした『お手紙note』は、お互い書きたいことを思いっきりぶつけあえました。あきらとさんから全力のお返事が来たとき、爽快で気持ちよかったです。
幸野つみさんが小説を書きおまゆさんが朗読した『ハコダテのがごめ』。おふたりの作品づくりでも、きっといろいろなやりとりがあったのではないでしょうか。(裏話からそんなことを感じました。おふたりのことなので、きっと穏やかな主張がなされていたことでしょう。主張は激しいものでなくてもよいのです。)

一伽さんも、ひとついかがでしょう。
お母様と一緒にアクセサリーを作って販売していらっしゃる一伽さんなら、noteでも「誰かと作る」が上手なのでは、と思いました。
たとえば、はるさんと『ぐつぐつ』をテーマにした創作をしてみるとか。
はるさんと主張を交わし『ぐつぐつ』をいじくりまわして自分たちの作品にしたときに、もしかしたら、もしかしたら。

再現性があるかはわかりませんが、私の場合は、誰かと何かを創ることが『ぐつぐつ』の扱いを覚えるのに役立ちました。


主張する人って、走っているんです。
だから、立ち止まっている人よりも強く風の影響を受けることになります。
主張すればするほど、向かい風も強くなりますが、追い風が吹けば遠くまで走れます。
走っているうちに体が強くなって、走りを阻害する風、そう『ぐつぐつ』を抱かせるような、流れを乱す風を振り切って走るようになります。

一伽さんが読んでくれた私のnote『最凶タッグ誕生 ーいじめ当事者たちの邂逅』で出てくる元いじめっ子と、私の風の向き(主張)は最後まで合いませんでした。
ふたりとも「知らんがな」のメンタルを持つ人間で、議論が平行線になっちゃったのです。
でも、いったん落ち着いて、風を読んで、ふたりで走る方向を変えました。
「知らんがな、けど、これやったらわかるわ」
いじめに対し、共闘する方に方向転換できました。
ふたりともよく走る(主張する)人だからできたことかもしれません。

ここまで書いておいてなんですが、『ぐつぐつ』って必ずしも捨てなくてはならないものでもないんじゃないか、とも思います。

『ぐつぐつ』を持っているということは、踏みにじられる側の気持ちに敏感だということで、それは長所です。

私は『ぐつぐつ』を捨ててしまったせいで、あんなに悩んでいたのに、いまや(気づかないうちに)踏みつぶす側の立場になっています。
あ、嬉々として踏みつぶしたりなんかしませんよ、でも自分らしく振舞うことで、人を傷つけてしまうことが多くあることを自覚しているのです。
(一伽さんへの、このお手紙もそうかもしれないと思いながら書いています。あきらとさんがね「自分の名前がタイトルに載ってるnoteがタイムライン流れてくるのマジで心臓に悪いから‼︎」って言ってました。
一伽さん、お手紙note、嫌だったらごめんね。でも書いちゃった。)

『ぐつぐつ』を捨ててしまったから、これを言ったりしたりすることで人が傷つくかもしれないからやめよう、という優しい考え方ができなくなっちゃいました。
誰かに『ぐつぐつ』を抱かせることをしてしまっても、私には「さようでござるか」と斬り捨てることしかできない。

(こんなツイートをしたら、ファボが15ついた)

私は、自意識過剰かもしれないけれど、リアルでもnoteでも振る舞いが派手なところがあり(よく自己主張しているでしょう?)、人を焼いてしまうことがたびたびあります。
被害妄想かもしれないけれど、もともと『ぐつぐつ』を抱えていた人間でもあるので、強い光を受けて陰でうずくまる人をよく見つけてしまうんです。そういうとき、ちょっと心が痛みます。

一伽さんもそうなりたいですか?どちらが人間として優れているかという話ではなく、どちらが自分にとって生きやすいかという話です。人を傷つけても大丈夫、と思うか、そうは思えないか。
私はたしかに『ぐつぐつ』を捨てて楽になりましたが、一伽さんに、無責任に「こっちへおいでよ」とは言いたくありません。

私は、一伽さんが書かれたnoteに、蛍の光のような、夜明け前の朝露のような、繊細で美しい光を感じました。
弱って枯れそうな草ならば、強い光よりも、一伽さんのような優しい光に照らされる方が、元気が出るのではないでしょうか。


私のこのお手紙も「悩みがない人が上から目線でアドバイスしている」と捉える人がいるかもしれません。
まぁ、そう言われても「さようでござるか」とバッサリですが。


なんだろう、途中から脱線しちゃった気もするけれど。
一伽さん、とっちらかったお手紙になっちゃってごめんなさい。
私の『ぐつぐつ』がいなくなった経緯、いなくなったことによって起こった変化は、こんな感じです。

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