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約束された幸福。サンタクロースを信じたいのは、私たちの方かもしれない


12月24日。世間はクリスマスイブ。日本中の親御さんたちが、自分の子どもに渡すプレゼントを準備されている頃だろう。

私は今年、親になって二度目のクリスマスを迎えた。去年のクリスマスも、今年のクリスマスも、当たり前のように息子へのプレゼントを準備した。子ども時代に卒業したはずのサンタクロースが再びやってくる。

幼い頃、クリスマスは特別だった。ある朝目覚めたら、枕元にプレゼントが置かれている。その日が雨でも、雪でも、嵐でも、贈り物は必ず届けられる。ドキドキしながらプレゼントを手に取り、冷たい手でリボンをほどき、包装紙をはがす。大事に大事に取り出したプレゼントを、たまらず抱きしめたものだ。


だが成長するにつれて、子ども達は気付き始める。サンタクロースは、本当に存在するのだろうか、と。実はサンタさんは存在しなくて、優しい両親がプレゼントを準備してくれているのではないか、と。だが、それを口に出すのを子ども達は躊躇う。サンタクロースは存在しない。サンタクロースの正体は自分の親だ。そんなことを口にしてしまえば、この魔法は溶けてしまうかもしれない。一年に一度だけやってくる、クリスマスという約束された幸せが逃げてしまうかもしれない。父や母にサンタさんの正体を聞いてしまおうか。やめておこうか。子ども心に、複雑なせめぎ合いが起こる。

実は私は、かなり遅くまでサンタクロースの存在を信じていた。なぜかというと、サンタさんから贈られるプレゼントはとても自分の親が選んだとは思えないものばかりだったからだ。記憶に残っている、一輪車や児童書。自分からリクエストしたものでも、食卓で話題にのぼったものでもなかった。にも関わらず、サンタクロースは不思議と私の心に響くものを贈ってくれた。

12月25日の朝。枕元に置かれたクリスマスプレゼントは特別だった。いつの間にかプレゼントはなくなってしまったが、一年に一度だけの、寒い朝の興奮と喜びは今でも鮮明に覚えている。それと同時に、この喜びを与えてくれるサンタクロースはこの世にいなくて、これはいつか覚めてしまう御伽話なのだと気付き、悩み、板挟みになったことも。


今、私は親になり、サンタクロースという役目を引き継ごうとしている。サンタクロースはいない、いずれは覚めてしまう夢に過ぎないと知りつつ、息子にも同じ夢を見てほしいと願っている。

もしかしたら私は、クリスマスという約束された幸せを、息子を通して取り戻したいのかもしれない。12月25日に訪れる喜び。これまでの生き方や行いや振る舞いに関係なく、雨が降っても雪が降っても必ず訪れる、揺るぎない幸運。

約束された幸せ、というものはこの世に存在しない。歳を取れば取るほど、そのことを痛感する。結婚式で永遠の愛を誓った直後、恋人たちは別れるかもしれない。数十年頼の再会の時が、最期に過ごす時間になるかもしれない。出会った瞬間に哀しみが始まることもある。幸福や不幸は気紛れで理不尽だ。幸せは与えられるのではなく自分で掴むもの。運はこぼれ落ちてくるのではなく自ら引き寄せるもの。


だからこそ、私はクリスマスの朝を信じたいのかもしれない。枕元にプレゼントを置くことで、プレゼントに喜ぶ子ども達を見ることで、一年に一度だけの御伽話を、この世に存在しない約束された幸運というものを、取り戻したいのかもしれない。


我が家のサンタクロースは、週末にやってくる。今年は12月25日の夜にやってきて、12月26日の朝にプレゼントを残してくれる予定だ。プレゼントは息子の枕元にと考えているが、如何せん、一歳の息子は寝相が激しく、枕元がそもそも存在しない。いろいろと思案しながら、あらぬ方向に体を向けて眠っている息子の傍らにそっと置いてくれることだろう。

目覚めた息子が、まだクリスマスの意味をわかっていない息子が、どんなふうにプレゼントに反応してくれるのか、今から少しドキドキしている。目の前に突然訪れた幸福を、確かに存在する幸せや喜びを、感じ取ってくれたら嬉しい。




12月25日の朝。たくさんの幸福が灯りますように。

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