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真人間なんていないと言いながら、真人間になりたいと思ってしまう

不合格通知はたいてい、薄っぺらい封筒で届くものだ。

先日、一通の封書が届いた。開封すると中には折り畳まれたA4用紙が1枚。その一番よく見える場所に「お引受け見合わせについてのお知らせ」と書いってあった。「あなたは我が社の医療保険には加入できませんよ」という文章を格式高く書くとこうなるのかと、私は妙なところで感心してしまった。

いろいろと思うところがあり、医療保険への加入を考えていた。「保険はいらない」という意見があるのは十分承知した上で、それでも自分の所得諸々を考えて加入したいと思った。そこでネックになったのは自分のこれまでの病歴だった。

多くの保険会社では過去5年間の医療機関受診歴を確認する。いわゆる「告知事項」と呼ばれるもので、ここで何かしらの記録があると保険加入が難しいとされている。残念なことに、私はこの告知事項に当てはまるものがあった。

私が告知した病名は3つ。
・うつ病(完治)
・偏頭痛(通院中)
・慢性副鼻腔炎(経過観察中)
これらを申告して、そして落ちた。



自分は保険に入れない人間だ、という悲しみ


今まで、私は医療保険に加入したことがない。保険は家族がいる人が入るもので、若くて子どもがいない自分には不要なものだと考えていた。「告知事項」なんてものがあるなんて全然知らず、病気で通院中だと、それが医療従事者から見ればさほど珍しくない、そして重症でないものであっても保険には入れない可能性があるなんて、気付いていなかった。

保険には入れない、ということに初めて気付いたのは、うつ病で通院が始まって半年くらい経った頃だった。なんのきっかけか忘れてしまったが、なにかの時に「精神科に通院歴があると、完治してから5年間は保険に入れない」と知った。そしてその瞬間、初めて、精神科に受診したことを後悔した。あの時、もうちょっと頑張って自力でなんとかしておけばよかったと本気で後悔した。

保険にさほど関心がなかったにも関わらず、「自分は保険に入れない人間である」と自覚したことが、とてつもなく大きな衝撃を私に与えた。「保険に入れない」イコール「自分は真っ当な人間ではない」。そのことに驚きと、自分自身への嫌悪を強く抱いたことを、今だによく覚えている。その時から、私の通院の目標が「薬を飲んで症状をコントロールしながら仕事や日常をこなしていく」ことから「一日も早く通院を終了して、保険に入れる体になる」ことになった。

精神科に受診したことも、その後の通院を続けたことも、間違っていたとは思わない。あの時、受診して休職しなければ、私はその後も医師として働き続けることはできなかっただろう。当時の私に「医療機関の助けを借りずに自力で職場に留まる」という選択肢はなかった。それは選んではいけない選択だった。だから受診・通院の選択は決して間違っていない。間違っていないのに、どこかで「保険に入れない」という現実が、取り忘れた棘のようにチクチクと刺す。

当時の選択に後悔はない。うつ病になったことも、休職したことも、そして薬を飲みながらも仕事を続けたことも、そこに極端な劣等感や罪悪感はない。通院終了から数年経った今、それらはただの「現実」としてフラットに受け止められるようになっている。それなのに、なぜか「保険に入れない自分」というのはまだ受け止められないでいる。


もしも友人が「保険に入れない自分はダメなんだ」なんて言おうものなら、私は一息だけついて、冷静に、ゆっくり、穏やかに「それは違う、その考えは偏り過ぎている」と否定するだろう。保険に入れるか入れないかは、その人の持っている要素のごく一部でしかない。過去5年の既往歴なんて「この人を勧誘させたらどれくらいの確率で病気になるのか」という計算でしかない。保険会社が営利企業である限り、その確率は機械的に計算されるものだし、ある一定の基準で切り捨てられるものだ。そこに、当人の人柄や、これまでの人生の道のりは一切含まれない。ただ保険に加入できないだけで自分を卑下するのはナンセンスだし、保険に加入しなくても備えることはできる。

自分以外の他者に対してであれば、そんな言葉がするすると浮かぶのに、私は私自身に対して、その言葉をかけられないままでいる



ずっと「普通の人間」になりたかった


10代の頃から「普通の人間になりたかった」と思っていた。普通がなんなのか、具体的に言語化はできなかったが、自分は「普通の人間に擬態しようとしている、普通の人間になり損ねたなにか」だとどこかで思っていたし、その感覚は今も続いている。

「普通になりたかった」って言うと「普通ってなんでしょう?」って令和のソクラテスが現れるけど、ここでいう普通とは「ある観点における能力が社会的に許容され、自分自身が劣等感を持たない範囲内に留まること」であって多様性の話ではない。花屋の店先で今お前が雑草を踏んでるという話をしている。(CB @CBydbbmpg

https://twitter.com/cbydbbmpg/status/1533603119870799872

@CBydbbmpg これ、「頑張って人間に擬態する何か」じゃなくて人間に生まれたかったってのをどっかで聞いてしっくり来たな(ゴリラテ @MICHTYMANJUU_XX

https://twitter.com/MICHTYMANJUU_XX/status/1534159121767079936


普通の人間なら、こんなに友人関係で悩まないんだろうな。
普通の人間なら、休日に友達と遊びに行くんだろうな。
普通の人間なら、もっと要領よくやっていくんだろうな。
普通の人間なら、普通の人間なら、普通の人間なら。

人間関係や容姿、勉強や仕事、日々の暮らしに至るまで。普通の人間ならさほど苦もなくできることに、私はことごとくつまづいてきた。普通の人間なら、その手の経験を「糧」にしていくところ、私はそれすらもできなくて、がむしゃらに必死に生きて入るけれど、同時に、ただ虚しく日々を浪費している。「普通」に対する曖昧な憧れと渇望にいつも魅入られ、飢えていた。

普通の人間ならば問題なく保険に入れる。保険に入れないということは、普通の人間ではない、という烙印を押されるようなものなのだ。少なくとも私にとって。だから無理かもしれないと思いながらも申し込みをしてしまうし、やっぱり無理だったと納得しつつも落胆している。


繰り返すが、「保険に入れる」かどうかが人間の価値を決めるのではない、ということは十分に理解している。そんなものは長い人生のちょっとしたアクシデントにすぎない。重要なものは他にたくさんあるし、保険に入れなくたって幸せによりよく生きる方法などいくらだってあるのだ。それはわかっている。わかっているからこそ、同時にそのことに固執する自分自身がひどく滑稽で、そんな自分はやはり「普通からは少しズレた人間なのだ」と認識してしまう。

その根底にあるのはきっと、劣等感や罪悪感と呼ばれるもので、それをどうにかしない限り、仮に保険に入れたところで問題の根っこはなにも解決しないということにも気付いている。



人はみんな違うと言うけれど


保険に入れない問題の根深さに改めて気づきながら、別の保険に申し込みをした。望みが薄いと感じつつも、もう一つだけやってみたいと、悪あがきを続けている。

生きている限り「まっさらな人間」になるなんて幻想そのものだけど、うつ病の完治から5年が経ったら、もしかしたら自分もそういう類に仲間入りできるのではないかと、淡い期待を抱いている。

人は違う。それぞれ違う。多様性とは「みんな等しく楽になる」ではなく「みんな違うから、それぞれが少しずつ不便を受け入れて、できるだけ多くの人が主体的に社会に参画できるようになること」だと思っている。

人は違う。自分と他の人は違う。だからあの人にとっての「普通」が自分の「普通」ではないし、自分が考える「普通」が自分にとって良いものであるとも限らない。理屈ではそう思っているし、他の人の前ではそう発言もできる。にも関わらずl、根拠のない「普通」にこだわっているのは実は自分自身だったりするので、この認知の歪みはどこからやってくるのかと、ほとほと嫌になる。


もしも生命保険に入れたら、私は自分を「やっと普通になれた」と安堵するのだろう。その姿を想像して、薄寒い思いを今から抱いている。





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