額縁ラプソディ
ポストカードサイズの写真立てを、二つ持っている。フライングタイガーで買った黒いものと、高円寺の雑貨屋で買った焦茶っぽいもの。
以前から美術館や小さな本屋・雑貨屋さんでポストカードを買うことはよくあった。はじめはそれらを「いつか誰かにあげる用」に買っていたけれど、一向にその「いつか」は来なかった。ああいったカードに文章を書くスペースはあまりないし、何を書いても印刷された内容を損なう気がしてしまう(宛名の面にメッセージを書いたこともあるけれどしっくりこなかった)。どうもわたしは、ポストカードを郵便に出せない性分なのだ、と六、七枚溜まったあたりで気がついた。というか、ポストカードを、人に渡すプレゼントや便箋ではなく、「絵をちいさくしたもの」みたいに捉えているから、うまく扱えないのではないか。じゃあもう飾ろう。絵として考えよう。
そう思って、画集を買ったときについていたおまけのポストカードを飾ろうと、まずは黒い写真立てを購入した。
ヨーロッパらしき広場の石畳の上で、おかっぱ頭の女の子が音楽に合わせスカートをくるんとまわして踊る、モノクロの絵が描かれたカードだった。
絵を入れると、周りの空気がきゅっと収斂されて、そこだけ小さな美術館のような緊張感が漂った。
その瞬間から、ポストカードは絵画に、写真立ては額縁となって、きちんとその役割を果たした。もとから好きでとっておいたカードは、佇まいが一段と、美しくなったように思えた。
ゲレンデ効果ならぬ額縁効果にすっかりやられたわたしは、別のものも飾ろうと意気込み、羊皮紙のような薄茶の紙に、黒と朱のインクで描かれた、全く別のタッチの絵を黒縁の枠に入れてみる。
どちらも素敵なものなのに、不思議。組み合わせると全くときめかない。素朴な紙の質感と、額縁のスタイリッシュさがちぐはぐなのだ。無理やりたとえるなら、松潤が生成りのワンピースを着てしまったような感じだ。松潤は最高にイケメンだし、洋服はとってもキュートなのに「絶対違うなコレ」ってなる感じ。相葉くんみたいな額縁だったらまだ似合ったかもしれないけど、松潤は違う、このワンピースはやめよう、ちょっと待て、相葉くんみたいな額縁って何、とぐるぐるしたのち、この絵と黒い額縁は似合わない、と結論づけた。
そうして、その絵に似合う、二つ目の写真立て、もとい額縁を3年くらい探した。飾る絵を邪魔しない、木製のシンプルなデザインのものがきっと合うと思った。よくありそうなものなのに、なかなかしっくりくるものは見つからない。ニトリも無印もロフトもダイソーもスリーコインズも世界堂も探して、ようやっと理想のものに近いものを見つけたときはいたく感動した。
手に入れて帰ると、コートも脱がず、部屋の引き出しに直行し、前から入れたかった絵を嵌め込む。
ーー想像以上に素敵だった。じんわりあたたかみのあるかんじがあって、絵の良さが引きたつ。引き出しから3年ぶりに出てきて、立てかけられた絵は、心なしか誇らしげに見える。探すのに苦労した時間も相まって眺めているのが幸福だった。いまもその幸福は続いている。
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最近は季節の変わり目になると、思い出したときに絵を取り替えている。
この間行った美術館でも3枚の絵を購入してほくほくしている。どれも二つの額縁のどちらかに、必ず合うからすごい。自分で撮った写真を、いつか飾ることもしてみたい。
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幸運にも、今年の秋は長い。芸術の秋を味わいたい人、もしくは家でポストカードを持て余している人は、ぜひ試してみてほしい。
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