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居場所について考えていたはずだけど気づいたら違う話になってた

居場所というのは、自分で拵えるものと、だれかが用意するものと、ふたつあると思っていた。

自分で拵える方がより上等だという考えが、いつからかわたしのなかに植わっていた。

コンビニのおにぎりより家で作ったお弁当の方、100均のトートよりミシンで縫った手提げの方、既製の茶碗よりも轆轤を回して自分がつくった茶碗の方がいい。
それの延長、親戚みたいなものだ。つくる方が偉い、と思っていた。

だから、「居場所をつくる人」はすごい、と思っていた。

じゃあこの、「居場所をつくる」とはどんな行動を指すと、わたしは考えているか。

たとえば、飲み会の幹事。会議のファシリテーター。会社の社長。そんな感じ。
指針を決めたり、日取りや場所を設定したりする人。周りに配る目を持つ人。

わたしは、最近とある場所に「行くことになるかも」という話が出たときに「そこにわたしの居場所はないからわたしは行かない」とはっきり拒絶した。

そのとき生まれた相手側の沈黙が、わたしには「居場所って自分でつくるものだよ?何でもかんでもだれかが準備してくれるものだと思ってるんなら甘えないでよ」と、いや、これ完っ全にわたしが勝手に妄想した台詞なんだけど、なんだかそういうことを思っているんじゃないかと思ってしまった(ややこしい)。

そのとき、

あ、わたし、自分のことを受け身で動かない、既にあるものに縋る人だと思っていて、さらにはそれを恥だと思っているのだな

と気づいた。
たまに薄々それを感じていたけど、その沈黙がそう聴こえたってことは、自分をそう捉えているんだなと知った。

うん。しんどい。

居場所ってさ、
「つくる」というのは
どの時点から始まるんだろうね?

幹事が「飲み会やるよ」って全体LINEで呼びかけたところで、それにだれも反応しなければ飲み会はないから、その「居場所」はできないよね。

2、3人の人が「行く行く!」て返して、場所が決まって、時間も決めて、その日無事集合して、乾杯したら、やっと居場所が始まる感じしない?

ということは、幹事が飲み会の場所と時間を設定して、「行く行く」と返した人がいても、彼らが来なければ乾杯もできず、居場所は完成しないのか?

ならば、幹事がいたところで居場所って完成しないのでは?
広げて考えるに、言い出しっぺだけで居場所は始まらないのでは?

じゃあ、居場所って、一人ではつくれないのかな。

なんて、いかにも道徳の教科書に出てきそうなお話でちょっと嫌になるから、逆に、一人で完結する居場所も考えてみる。

一人暮らしの自分のアパート然り。よく行くけれど仲良いマスターがいるわけでないお気に入りの喫茶店然り。

わたしにとって、本に没頭できる帰りの電車も貴重な居場所だ。

あれ、書いてて気づいちゃったけど、つくれてる?もしかしてわたしも居場所つくってる?

一人居場所マスターになれてたりする??

ひょっとすると、「誰かのために居場所を用意すること」が偉いと思っていたのかなわたし。
そんな気がしてきた。

「自分のための居場所」はえらくない?
でもじゃあ、幹事やるのがめちゃくちゃ好きで、もしくは自分の好きな日に設定して好きな居酒屋にしたくて「自分のため」に幹事になった人はえらくない?

そういうこと??

じゃあ、わたしが抱えているのは、居場所つくり云々ではなく、人のためにするか自分のためにするか、ということ?あら?あらら?

もうちょっと整理したい気もするけれど、そうすると何かを損なう気もする。
この辺で、今日はおしまいにしようっと。

また書きにきます。

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