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2024-01-10: 2023年強く印象に残った漫画ベスト10
はじめに
2023年もいろいろ新旧漫画を読みました。
面白い漫画ばかりですが、10作に絞って、特に印象に残った漫画をご紹介します。
知らない漫画があれば、是非読んでみてくださいね。
2023年ベスト10
※紹介順に意味はとくにありません。
平井大橋『ダイヤモンドの功罪』(~4巻)
集英社のWebコミックプラットフォーム「ヤンジャン!」上で連載中の野球漫画です。現時点で4巻まで刊行されています。
主人公の綾瀬川次郎は小学5年生。
天性の抜きん出た身体能力と運動センスを持ち合わせ、どんな競技でも多少経験しただけで非常に高いパフォーマンスを発揮する「ダイヤモンド」そのものです。
しかし、綾瀬川の才能は同年代の選手たちの自尊心を打ち砕き、教育者である大人たちをも翻弄していきます。
次々と居場所を失っていく綾瀬川が、地元の少年野球チーム「バンビーズ」に加入し、野球漫画としての本作が動き出します。
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とても優しい性格の綾瀬川は、自身の存在が周囲の競技者や教育者を翻弄していることに心を痛めつつ、なぜ自分だけが「ふつうに」スポーツができないのかと苦しみます。
本作の最大の主題は、天才の孤独と懊悩です。この主題は古今東西、数多くの作品で反復して描かれてきました。
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孤独で不遇な生涯を送った天才ウィリアム・ジェイムズ・サイディズの人生のように、天才であることは幸福や勝利を必ずしも約束しません。
『BANANA FISH』の天才少年アッシュ・リンクスのように包容力のある理解者に出会えたり、『バタアシ金魚』のスポーツ万能少年永井のように「天才でなくなる場所」に居場所を見出す人もいます。
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作者の平井先生は本作連載以前に、時系列的に本作の後日談(パラレル?)となるであろう読み切り『ゴーストライト』『ゴーストバッター』を描いています。
そこで登場する成長した綾瀬川はどこか達観(スレた?)したような人物として描かれており、本作がミッシングリンクとなっている思春期の綾瀬川をどう描くのか、今後も期待されます。
本作には別の主題もあります。それは、天才に翻弄される凡人の感情です。
綾瀬川は出会う競技者すべて狂わせるボーイなので、周囲の大人も子供も、みんな綾瀬川を意識し、バランスを欠いていきます。
キャリアを通じて綾瀬川と比較されることが約束されてしまった同年代のプレイヤーたちや、規格外の天才をどう教育すればよいか悩む教育者たちの葛藤が繊細に描かれ、個人的な感情と野球論とが衝突していく。
追い込まれ続けていく綾瀬川から、今後も目が離せません。
珈琲『ワンダンス』(~11巻)
『ワンダンス』には作者である珈琲先生の人生と感情が強烈に載っていると感じます。
実写映画化も実現した、ボルダリング競技を主題とした過去作『のぼる小寺さん』でも、作者のボルダリング経験に裏打ちされた重厚さがありましたが、本作はそれを凌駕していると思います。
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小谷花木(カボク)は高校進学したばかりの男子。
浅く付き合える友人は少なくないのですが、吃音症を抱えており、自分の気持ちや考えを他人に伝えるコミュニケーションを苦手としています。
そんなカボ君が、クラスメイトでダンサーの少女・湾田光莉と出会い、彼女自身や、「言葉に頼らない表現」であるダンスへと惹かれていきます。
珈琲先生自身、かつてはダンサーであり、また吃音症であるという経歴が、カボ君というキャラクターに厚みを持たせています。
ボーイミーツガールの構図は、『のぼる小寺さん』や『しったかブリリア』といった過去作においても反復されている基本構造ですが、本作においてはカボ君という男主人公がキャラクターとして完全に自立しており、魅力的なヒロインに依拠せず作品を牽引しています。
大会やバトルを通じて、対戦相手と和解したり、仲良くなっていく展開はオーソドックスな少年漫画の文法でもあり、作品に強い背骨を通していると言えます。
ボルダリングも対戦競技としての競技性がありますが、ダンスバトルは対戦に応酬性があることから、戦いを深く描きながらキャラクターを掘り下げることに成功していると思います。
私が考える、本作における最大の特徴は、ダンス表現の漫画的な視覚化における試みです。
下図を比較してみましょう。
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最初期においては、パフォーマンスするキャラクターはキャラクターとしてしっかり作画されています。ムーブ中の一部分を切り出すような描写です。
対して、最新巻に近づくにつれ、演出の方法は広がっていきます。
キャラクターのディテールを書き込まず、シルエットだけを残して粗密を作り、正確な肉体の運動ではなく、運動がギャラリーに与える印象そのものを描こうとしています。
これは、本来時間表現ではない漫画で、いかにして時間表現であるダンスの有する動静や迫力を表現するかという課題に、珈琲先生が正面から取り組まれた結果でしょう。
この表現先鋭化には毎回鳥肌が立つ思いです。
このような優れた仕事を読むことで、私自身も画業のモチベーションを維持しています。
真鍋昌平『九条の大罪』(~10巻)
『闇金ウシジマくん』の長期連載を終えられた真鍋先生が現在連載中のリーガルドラマが本作です。
法曹界を舞台とした漫画は少なくなく、『家栽の人』『弁護士のくず』といった名作から、近年ではインターネット上のトラブルを主題とした『しょせん他人事ですから』などの人気作があるジャンルです。
TVでも、米・NBCで休止をはさみつつ現在も放送中の長寿ドラマ『Law & Order』や、国内でも『HERO』や『リーガルハイ』といったドラマがありました。
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本作の主人公、九条間人(たいざ)は依頼人を選ばないことをモットーとした弁護士です。反社会的勢力や犯罪者の弁護も行うため、世の中的には悪徳弁護士として悪名が知られています。
ダーティな要素をもつ人物が主人公で、反社会的勢力が登場するという点は、前作『ウシジマくん』に通じますが、本作の骨子はリーガルドラマです。九条自身は反社会的性向をもつ人物ではなく、むしろ法社会に真摯に向き合うがために汚名も進んで受け入れています。
『ウシジマくん』本編では、丑嶋の心情や背景が読者に語られることはあまりありませんでした。これは、作者が反社会勢力である丑嶋のドラマに、読者を必要以上に感情移入させない(丑嶋をヒーローにしない)ための演出だと思います。
他方、本作の最新刊では、九条の経歴や彼の意思・思想を支える背景などが少しずつ判明してきました。
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愚直なまでに、司法制度そのものであろうとする九条は、丑嶋のような人間離れしたタフガイではありません。
彼がどう生き、司法を見つめていくのかを、私も伴走しながら楽しく読んでいます。
『ひらやすみ』や『スキップとローファー』のように、読後にほのぼのとした気分になる作風ではありませんが、『ウシジマくん』が苦手だった方も、本作は楽しめるかと思います。
ぜひ読んでみてください。
西尾雄太『下北沢バックヤードストーリー』(~2巻)
下北沢で古着屋を営む、30代中盤男性・椹木が、同棲している彼女に家出されてしまうところから本作は始まります。
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本作はミッドライフクライシスを主題とした青年の成熟譚です。
椹木は古着屋としての成長鈍化に悩みつつ、私生活でもパートナーとうまくいかない。
「理性的で論理的な俺」という自己認識、「感情的で非論理的なパートナー」という他者認識に依拠しながらも、ひょんなことからかつての恋人たちと再会していくことで、形成していた認識や考えが脅威に晒される経験をしていきます。
『下北沢』には、もはや若者ではないが、成熟しきった壮年でもない中途半端な状態の青年が汎的に抱える問題が散見されます。
椹木は、かつての恋人たちとのタフ・ネゴシーエションを通じて、目を逸らし続けていた、自分自身の幼児性と向き合わざるを得なくなります。
この幼児性描写は非常にリアルですが、端的に言えば「自分が一番かわいくて大事」ということです。
この幼児性は私にも十分身に覚えがあり、脱却が著しく難しい青春スーツ(cf. 『ハチミツとクローバー』)です。
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本作は主人公が椹木であることから、彼の禊としての物語として構成されていますが、登場人物たちは誰も彼も本来的な意味では成熟できていません。
椹木を問い詰め、面罵する女性たちもまた成熟の途上です。
メンドクサイやつばかり出てきますが、それはそもそも、私たち人間がメンドクサイ生態なので仕方ありません。
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本作は今月、最終巻の3巻が刊行予定です。
椹木と彼女の関係はどうなるのか? とても楽しみです。
ところで、本作の「次々と元カノが主人公の前に登場する」構成は、Bryan Lee O'Malleyによるアートコミック『Scott Pilgrim vs. the World』(邦題は『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』)に影響を受けています。
こちらも合わせてオススメです。
また、作中の古着描写は気持ちいいほどオタクなので、こちらもじっくり読んでみてください。
私は、もっと椹木の古着ウンチクを聞いていたかったです。
松本大洋『東京ヒゴロ』(全3巻)
感想はすでに、完結時にnoteへ投稿していますので、そちらをご覧ください。
いしいひさいち『ROCA: 吉川ロカ ストーリーライブ』(全1巻)
ファドというポルトガルの民族歌謡でプロミュージシャンを目指す女子高生・吉川ロカの物語です。
本作、元々は朝日新聞で連載されている『ののちゃん』で少しずつ展開されていた物語だったのですが、吉川ロカを主人公とした作品として書き下ろされ、同人誌化されました。
本作のジャンルはギャグ漫画ですが、主題は女子高生同士の友情であり、愛情です。人によっては、これを百合だと捉える方もいると思います。
主人公のロカは、ファドが好きな女子高生。両親を海難事故で亡くしています。
彼女がプロミュージシャンとしてのキャリアを歩くため、後押しするのが年上の同級生(ダブり)・柴島です。
ぼんやりとした性格のロカと、不良的な柴島がなぜか意気投合し、柴島は実家の力を使ってロカを表舞台へ押し出します。
ロカは地元を出て都会で活動し、少しずつ有名になっていきますが、彼女の心の支えは地元の柴島です。
柴島も、成功していくロカを内心では自分のことのように喜んでいます。
ところが、柴島の実家には反社会的な要素があり、それを懸念した柴島は、ロカに一方的に絶縁を切り出してしまいます。
二人がどうなるのかは、本作を最後まで読めばわかります。
また、補記的な作品群である『花の雨が降る ROCAエピソード集』という同人誌もありますので、本編読了後はこちらも併せて読んで欲しいです。
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『ののちゃん』のキャラクターは二頭身半がデフォルトですが、『ROCA』では七頭身のロカが多く描写されます。
ギャグとシリアスを横断する作風に合わせた人物描写であり、作風も新聞4コマから乖離したストーリー仕立ての色合いが濃いです。
いしい先生の、少ない手数で魅力的なキャラクターを描く手腕は突出しています。これが漫画です。
たがみよしひさ『軽井沢シンドローム』(全9巻)
伝説的な作品『軽シン』を今頃読みました。
とはいえ、若い人の多くは本作を知らないかもしれません。
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長野県軽井沢を舞台とした青春活劇である本作は、カメラマンの相沢耕平とその親友・松沼純生が親戚の住む軽井沢に転がり込んでくるところから始まります。
本作の特徴は、極端なデフォルメとリアルとを画面内に併存させた独特の高レベルな作画と、自由奔放な性描写です。
耕平は、たがみ作品に頻出する「性豪でタラシな主人公」そのものであり、登場する多くの女性キャラクターと肉体関係を持ちます。
また、耕平の女性関係は周知の事実であり、女性たちは耕平を「共有」するというヒッピー的な状況を是とします。
この性倒錯的な状況こそが表題の「シンドローム(症候群)」です。
80年代の軽井沢という、都会ではないが田舎でもないという特権的な地位を与えられた、避暑地という日常の空隙において抑圧や規則から開放された若者のエネルギーが奔流する本作は、たがみ先生のかっこよすぎるペンタッチによって荒々しくも繊細に描かれています。
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本作はキャラクターだけでなくメカ描写も秀逸で、これほどのメカ描写を漫画で見ることはなかなか難しいです。90年以降のサイバーコミック系のタッチとも違い、言うなれば鳥山明先生系の構造把握能力を感じます。
ときどき私も軽井沢に行くのですが、行くたびに『軽シン』を思い出します。
縦の筋というよりも、ダイアローグと絵の快楽を感じる漫画です。
安達哲『キラキラ!』(全5巻)
安達哲作品の中で、本作はターニングポイントの役割を果たしていると思います。
私は安達作品を、『ホワイトアルバム』『キラキラ!』に代表される初期の青春群像劇、『さくらの唄』『幸せのひこうき雲』『お天気お姉さん』に代表される中期の暴力・性倒錯的な世界観の展開、そして現在に至る『バカ姉弟』の日常系路線に3区分できると考えています。
『キラキラ!』は週刊少年マガジンで連載されたラブコメ枠の漫画であり、『ラブひな』や『五等分の花嫁』に連なる作品です。
ただ、後年の週刊誌ラブコメと比較すると、内容はかなりヤング誌寄りで、同時代的にはヤングマガジンのカラーを反映していると思います(実際、安達先生は『さくらの唄』以降は長らく活動拠点をヤングマガジンに移しています)。
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『キラキラ!』は、秀才高校生・杉田慎平と、芸能科いちの美少女・戸田恵美里のカップルを中心としたラブコメ青春譚です。
前作『ホワイトアルバム』同様、「不良・美少女・鬱屈」という基本構造を継承している本作ですが、「恋人は国民的アイドル」という飛び道具的設定が追加されています。これは、後年の桂正和『I"s』やLeaf『WHITE ALBUM』(安達作品とは無関係)などにも認められる、サブカルチャーにおいて王道化していった設定です。
『ホワイトアルバム』は、若さを持て余して張り裂けそうな高校生たちが、お互いを傷つけ合いながら、高校の3年間を駆け抜けていく正統派青春劇でした。ある種泥臭いとも言えまし、今なお鮮烈な輝きを放っている大好きな作品です。
対して、『キラキラ!』は芸能科が舞台という少年漫画的設定を導入し、恋人との非対称性・心身距離感演出をわかりやすく展開しました。
現代のラブコメではまずあり得ない、多くの恋愛関係が作中の登場人物間で発生し、ドロドロ渦巻いていきますが、安達タッチの軽やかさ・絵力がそれをギリギリの領域で少年漫画に留めています(とはいえ、ガッツリ性表現は描かれており、これは『ホワイトアルバム』との差異です)。
本作は慎平と恵美里との関係性が主題であり、最大のファンタジーは、慎平を愛してくれる美少女・恵美里の存在そのものです。
このファンタジーは幼稚な男性的欲望そのものであり、ラブコメの快感原則に準拠しています。
このファンタジー自体は『ホワイトアルバム』にも認められますが、それの自己批判性による産物が、慎平の同級生・岡島という人物です。
鬱屈した少年・岡島は想い人である美少女・神元との恋愛を妄想しながら、自身に好意を持つ人並みな同級生・花田と妥協的交際をします。
この妥協性は、慎平と彼に好意を寄せる少女・恵美との関係性にも現れています。
安達作品は、本作以降、このようなファンタジー・偶像と現実との距離感を様々な形で描写していきますが、『キラキラ!』はその嚆矢です。
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本作の最後は、慎平が恵美里と相思相愛になって幸せな結末を迎えます。
しかし、その直前に展開される衝撃的な演出が、二人の今後が本当に幸福かどうか(ファンタジーか、現実か)という懐疑を提出し、月並みなラブコメと一線を画する特異なエンディングを迎えます。
たとえば、『ラブひな』において、景太郎となるは結婚というラブコメが要請するゴールを完全に達成するわけですが、彼らの人生は無論その後も続いていきます。それが描かれず、めでたしめでたしで終わるからこそ物語はファンタジーなのです。
それらの作品をファンタジーとして享受し、愛好している私たちは「幸福のその後」なんて考えたくない、作品は始点と終点で切断された線分であって欲しいという欲望があります。
そのような欲望を破壊し、人生は続いていく……という現実を提示してくるのが『翔んだカップル』シリーズ的なファンタジーがもつカタルシスの消去です。
『キラキラ!』もエンディングで神(作者)が慎平を審問しますが、これは山田玲司先生が指摘するように、山田太一『ふぞろいの林檎たち』シリーズ的な線分の延長とファンタジーの破壊・成熟(と去勢)へのオマージュだと思います。
このようなエンディングを用意してしまう以上、安達哲は最早少年誌の枠内では活動できないことは自明だったものと思われます。
ところで、『キラキラ!』作中におけるコメディ描写は、『バカ姉弟』に通底するユーモアです。これは『お天気お姉さん』などでも随所に見せるテイストであり、『バカ姉弟』の萌芽はすでに準備されていたと言えるでしょう。
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安達哲作品については、noteでちゃんとなにか書こうかなと思っています。
私は『ホワイトアルバム』と『さくらの唄』が最も好きです。
山上たつひこ『光る風』(フリースタイル版 全3巻)
週刊少年チャンピオンの飛躍を支えたギャグ漫画『がきデカ』の作者・山上たつひこは、キャリア初期に社会派のディストピア漫画を発表していました。
それが『光る風』です。
大日本帝国的な架空の軍事国家下で人間性を喪失している人々や政府と対立する主人公・六高寺弦と、相思相愛である家事手伝いの少女・雪が、非人間的な治世に翻弄されていく物語なのですが、おバカな『がきデカ』とは全くテイストが違います。
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多分少なからず『Zガンダム』の主人公・カミーユに影響を与えてそうな弦は放送禁止用語を作中連発します。
本作が発表された70年は、太平洋戦争終戦からまだ25年しか経過しておらず、世情的にも日本の再軍備化や第三次世界大戦を予期させる不安が満ちています。70年安保闘争の只中であり、戯画化というには生々しいフィクションです。
作中、弦と反目していた兄・光高が四肢を失って自宅療養する様子は後年の若松孝二『キャタピラー』的ですが、有名な映画版トランボ『ジョニーは戦場へ行った』公開前の作品であることから、山上先生が身辺における現実の元傷兵を意識して執筆されたのかな、と想像しています。
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弦と雪の結末は、内田樹が指摘するように人間の條件のラストシーンを彷彿させますが、この悲劇的なバッド・エンディングは数年後に発表される永井豪『デビルマン』にも影響を与えているのではないかと思います。
これが週刊少年マガジンに掲載されていたというのだから、70年はものすごい時代です。68年の『ハレンチ学園』に端を発する何度目かの漫画悪書追放運動がまだくすぶっていた時期かと思いますが、それを物ともしない作品です。
フリースタイル発行の版には巻末に上記の内田樹の書評もあり、こちらもぜひ最後に読んでみてください。
ジョージ秋山『アシュラ』(上下巻)
重たい漫画を最後の方に集めてしまいました。
『アシュラ』は、中世の飢饉において狂女から産まれ、想像を絶する飢餓の中で母に食べるため焼き殺されそうになった幼児・アシュラが主人公です。
彼は「生まれてこないほうが良かった……」という思いから、人間性を拒否し、呼吸するように殺人を犯すようになります。
……ちょっととんでもないあらすじなのですが、ここまで陰惨な出だしの漫画も珍しいですよね。
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私には3歳になる子供が1人いるのですが、上記の母による子殺し(未遂)の描写が読んでいて、我が子を想わずにはいられず、本当に辛かったです。
歳を取って、近年はあまり漫画に動揺させられることはないのですが、ジョージ秋山先生の漫画は『ザ・ムーン』『銭ゲバ』など、ギョッとさせられることがままあります。
『アシュラ』はその内容から、神奈川県で掲載誌である週刊少年マガジンが有害図書指定されるなど社会問題化し、キャンセルカルチャー的に打ち切りへ追い込まれてしまいました。
後年、本作のその後を描いた『アシュラ完結編』という読み切りが公開され、そこではぐちゃぐちゃの長髪を剃髪した少年アシュラが、仏道に入っていく様子が描かれています。
この剃髪は、人間性を喪失し動物として生きていたアシュラが、獣の象徴である長髪を剃って毛のない人間に回帰したという風にも読めます。
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ジョージ先生には放送作家をなさっているご子息・命さんがいらっしゃいますが、「命」という名前はもともとアシュラに作中で命名する予定だったそうです。
「生まれなければよかった」と何度も我が身を呪うアシュラは、デビット・ベネターらが提唱する現代の反出生主義の極端な体現者ですが、秋山先生自身は彼に「命がけで生きろ」という願いをかけていました。
『アシュラ』は、誰もが人間性を失った時代で自分だけが人間性を大事にする意味がないのではないか、という命題を立て、しかしそれを否定したいとう秋山先生の祈りが見え隠れします。
『銭ゲバ』で、唯物論的・資本主義的な化け物と化していく銭ゲバが、それでも純粋なものを願い続けていくあの祈りのような、執着にも似たものがそこにはあると思います。
全編渡って陰惨な話という点においては『光る風』と同様ですが、こうした作品もあることが漫画の懐の深さだと思います。
おわりに
ここに挙げていない作品でも、毎回非常に楽しみにしている漫画がたくさんあります。
漫画って、ほんとうに良いもんですね。
それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
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