子宮内膜症(卵巣チョコレート嚢胞)と妊活 ③ 胚盤胞移植1回目・流産
※ 子宮内膜症を患うアラサー妻と、夫が体外受精に取り組んだ一例の話です。経過は今までの記事に記載しています。
約5cmの卵巣チョコレート嚢胞を持ったまま、クロミッド法での採卵を行った。2つ卵子が採れて、奇跡的に2つとも胚盤胞へと成長した。胚盤胞とは、子宮内膜に着床する直前の受精卵である。胚盤胞の成長具合を数字とアルファベットで示すようで、2つとも良い成長ランクのものであった。クロミッド法であったため、子宮内膜が薄く、採卵した月には移植をせず受精卵を凍結した。
血中のとあるホルモン値の上昇具合から、採卵してから2ヶ月後の移植となった。午前中に採血してホルモン値を調べ、注射を打つ(何の注射かド忘れしました)。検査でOKが出ると午後に移植を行う。文にするとゆったりとした流れのように感じられるかもしれないが、全ての行程において時刻がきっちりと決まっており、自由に行動ができないことが少しストレスであった。特に、移植時には膀胱に尿をたくさん溜めておく必要があり、自由にトイレに行くことができなかった。
いよいよ移植の時である。
受精卵を凍った状態から元の状態に戻してもらった。2つの胚盤胞のうち、より早く成長している受精卵をお腹に戻してもらうことになった。手術着に着替え、看護師に連れられて施術室へ。恐らく、採卵した時と同じ部屋に案内された。
移植の担当は、病院Cの院長だった。「良いタマゴだから、きっと着床するよ〜」と明るく話していた。院長は「好きな音楽ってある?」なんて世間話も交えながら、手早く施術をしていた。子宮がかなり後屈しているため、膀胱に溜めた尿だけではエコーが見づらいらしく、生理食塩水をバシャバシャと入れられた。腹部エコーでグリグリと押され、圧迫感があった。
準備や待っている間は長く感じられたが、移植自体は短い時間で終わった。
強い痛みはなく、器具やチューブが触れた部分に違和感を感じる程度であった。移植した後、ベッド横のテレビ画面に子宮のエコーが映っており「この光っている部分にタマゴを戻した」ということを教えてもらった。まだ、タマゴが内膜にポンと乗っかった状態というだけなので、身体的な実感は分からなかった。
移植当日は安静にしていたが、翌日からはいつも通り仕事に復帰した。移植してから数日後、少量の出血があった。着床出血という言葉を聞いたことがあったので、その可能性もあると思った。残業が多い仕事であったため、お腹の違和感にかまっている余裕はなかった。無理をするつもりはなかったが、毎日家に帰って何もできないほど疲れていた。また、その後も決められた日にホルモン補充の筋肉注射を打った。地味に痛かった。
気づいた頃には、なんとなく身体がだるく、気分が優れない日が続いた。市販の検査薬でフライングをしたところ、濃いめの陽性ラインが出た。検査薬は尿中のh CGという成分に反応するらしく、正常に妊娠したというよりは前述の注射の影響かと思った。生理予定日に生理が来ていないことを確認し、病院で言われた日に検査薬を再度試したところ、再び陽性反応がでた。
夫に報告すると「よかったね」と言ってくれた。一喜一憂してはいけないと思ったのか、2人ともどこか冷静だった。あえて、ネガティブに考えるつもりもなかったが、万が一ということもある。出産するまでは、どんな状況でも安心することはできない。
エコー検査で胎嚢を確認した。子宮内にあるので正常妊娠ということであったが、胎嚢の直径は週数よりも小さめだと言われた。医師も「妊娠おめでとうございます」とは言ってくれたが、どこか安心しきれない表情をしていた(ように思われた。)内診後、葉酸サプリを摂るように、細菌の感染に気をつけるように、など、一通りの説明を受けた。まだ、妊婦になるという生活にシフトチェンジすることは想像がつかなかった。
妊娠がわかると、もっとうわ〜って世界が変わるような、そんな高揚感が得られるものだと思っていた。ネットでも、一般の人がかなり早い段階で妊娠報告をする人も多い。(自分はやってなかったが)不妊治療を経て妊娠した人のSNSアカウントも、いわゆるマタ垢に移行してからは幸せいっぱいの報告がたくさん流れている。職場の他の妊婦さんは、仕事こそ粛々とこなしているが、ふと世間話が漏れ聞こえた時は妊娠や赤ちゃんの話ばかりだった。
妊娠はハッピーで喜ぶべきこと!妊婦さんは優しく!妊婦さんには配慮を!なんて、誰もそこまでの主張は口にしていない。けれど、どこか本能的なところで、幸せの重圧みたいなものを感じてしまう。
やっぱり実際に自分が経験していないことは分からない。
その後は、週に1回のペースで検診に行った。この段階ではまだ、不妊治療の枠での受診である。胎嚢は相変わらず小さいと言われた。胎芽と卵黄嚢のリングはなんとか見えた。しかし、医師から「これ以上育つことは難しいかもしれない」という告知を受けた。
苦しかったのは「もう1週、様子を見ましょう」と言われ、流産になると言われるまでにタイムラグがあったことだ。もしかしたら助かるかもしれないという希望を抱くことは大事だ。信じてあげられる自分になりたい。だけど、だけど、辛かった。
次の検診までの1週間はとても長く感じられた。ネットで「胎嚢小さい」「流産」など、いろいろな単語を調べた。側から見たら静かに待つべきなのかもしれない。調べたところで何かが解決するわけではないが、いてもたってもいられない気持ちになっていた。
1週間後の検診で、ピコピコと心拍を確認することができた。
けれども、医師からは「この心拍はいずれ止まってしまうだろう」と言われた。
家に帰って、初めて大きな声でわんわん泣いてしまった。今でも思い出すと泣いてしまう。夫は滅多に見せない涙を少し流して、静かに抱きしめてくれた。ピコピコと心臓を動かしてるエコーの映像が忘れられなかった。コロナ禍じゃなければ、夫にも一緒に見てほしかった。見えない小さな何かが心臓を動かして、意志があるのかは分からないけれど、懸命に生きようとしている。初めてお腹に温かみを感じた。そして、その存在がもうすぐ自分のお腹から消えようとしている。
翌日も、普段通り仕事をして過ごした。職場の上司には、もしかしたら流産になるかもしれない旨を話した。急に流産が起こるか、手術をするかは分からないが、体調に異変を感じたら休むかもしれないということを伝えた。
その次の週の検診では、心拍が止まっていた。稽留流産になるらしい。しばらくすると多めの出血や腹痛があるかもしれないこと、なかなか出てこない場合は手術をして取り出したほうがいいとのことであった。数日間、少量の出血はあったが、出てこない日が長かったので結果的に手術をしてもらうことになった。
手術は知らない医師によって淡々と行われた。手術台に上って、採卵以来の全身麻酔を注入された。前回よりも麻酔がキツめだったのか、起きてからは目眩のような気持ち悪さがあった。また、リカバリ用のベッドは、生まれたての赤ちゃんがいる新生児室の近くの部屋にあったようで、たびたび赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。でも、そんな赤ちゃんたちの声は耳には入らず「ああそっかお腹の中、空っぽになったのか」と、無になって、呆然としていた。
手術の翌日は意外と元気に動けたが、翌々日あたりから、生理痛のきつい痛みのようなものを感じた。医師に言われたように鎮痛剤を飲んで安静になって過ごした。当時は知識がなかったのでこの痛みは手術の後遺症だと思っていたが、今思えば、一応、後陣痛だったのかもしれない。ほんの短い間でも、身体は命を育むために変化していたようだ。
稽留流産の手術から数日後、ようやく身体が動くようになってきたところで、夫婦で話し合い、近くの寺で「水子供養」をしてもらうことにした。生まれることができなかった命が水子になる、という考え方は、うちの宗教とは違うものだったが、どうにか何か今できないものかと考えて調べた。冬の寒い時期だったが、行ってよかったと思う。落とし所のなかった感情が、不思議とストンと落ち着いたように感じられた。
出来事は自然の摂理なのかもしれないけれど、意味づけをすることで救われる、そんな気持ちがあるのだと感じた。
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