【神様の実体~神に焦がれた病魔~】

統合失調症とは何か。精神病。
私にとって、この病気は、精神の死滅を意味する。
正しくは死んではいない。
けれど、独自の人間性が死んでいる。眠っているのだ。

永遠に目覚めないかもしれない。
その人は、人間の言語も忘れ、社会性を失い、全うな人生を遺棄してしまう。こともある。
その人の中では、確かに世界は回っているが、病魔が回す世界である。
その中に、その人の面影をチラリと覗き見ることもあるけれど。
不思議の国を生きているその人達に、私達のリアルな世界は謂わば次元が違って、境界線が交わらない。まるで異世界の他人だ。

この病気を経験した私は、その、不思議の国の実態と重さをなりに理解している。
だから、「病気ですよ」と、言われてしまう患者の絶望感や、強い反発心、猜疑心などがよくわかる。
それは相当なショックで、まこと細やかな清廉潔白な人などは、生きていかれないと思うかもしれない。

けれど、まだ、私の頭が、一部の外界の情報を正しく処理出来ていた頃に、「あなたは病気だ」と、言われていなかったら。伝えられることがなかったら。
私は今の、正しい道のりに、立てていなかった。

ちょっとも自分を疑うことなく、生きながら神の世界に呼ばれてしまっていたのだから。
病人にとって、現実社会こそがまやかしであり、目覚めていない世界なのだ。

そこから戻ってきたのは、「正しい世界」が、どちら側に在るのか、を病人なりに識別してきたからだ。
自分が居るべき、生きるべき世界が、どこにどのように在るのかを考え、教えられてきたからだ。

「信じていた世界がまやかしである」というのは怖いもの。だけど、
人は、正しい生き方こそしたいもの。
だから私は神の世界(妄想)から戻ってきた。

社会がこの病気を正しく学習させないのは、何か不都合を隠してのことかもしれないが。

これではいけないと思う。
あまりに大切な真実の道こそ、底に沈めてしまっているように思える。

現実社会が、これに甘く、批判の目を向けなかったら。世界には、ただただ悲しい思いをする人が増えてしまう。

確かに、伝え様、はある。様を間違えれば、その人は、どちらの世界も手放して、本当に神の世界へ行ってしまうかもしれない。

それでも。その人を呼び戻すのに、ただただ薬を投げて、言葉もなく首輪を掛けて引き摺るように無理強いするものか。

私は本当に、恵まれていた。

統合失調症を生きる人達は、誰も、「間違った生き方をしているとは思っていない」。「病気の症状を生かされているとは、考えていない」のだから。

私は心底、滅ぶように思えた、この世界を救いたかった。
現実社会で、生きていたかった。

妄想や幻覚が症状であると気付いた(疑いを持った)私がまずしたことは、
その幻覚を見ないようにすることだ。
四六時中ひたすら我が身に訴え掛ける、その幻に一切集中せずに、無視を決め込むことだ。
そうしていつしか、それらを感ぜられなくなっていた。

間違いだとは思わない。
だって、その世界が、リアルな世界と結び合っていなかったのだから。その世界は、まるで実体を持たなかった。私の、空想が、作り出した世界だったから。

本人の、実社会で生きたいという力と欲。

私は、その理性で物事を考え出せなくなる前に、周りの人からヒントをもらって、辛うじて呼び戻された。
鎖で繋がれたり、引き摺るのではなく、声を掛けて、道を照らしてもらったのだ。


現状、この現実社会はまだ、神の世界がどのようなものであるか、正しく考察出来ていない。
そうでないから、このような病気の人に、掛ける言葉もない。

今の平和そうに見える社会に潜む無法地帯だ。神こそが。

神様って何?存在するの?どこに居るの?って、答えられる人が、いつどこに居ただろう。
この世界に、完全な「無」がないとしても。私はこれだけは自信を持って「無い」と言える。
人が、その技術、能力で以て、神様の袖を掴むこと。
切りのいい、完璧なまでの0%の確率だ。

答えは【わからない】。

「心で想うこと」、「心に感じ取ること」は、出来ようと。
その実体をその指で摘まみ上げることは、絶対に出来ない。
今の人は、これを正しく理解しているか?

未だに、悪魔や幽霊に怯えてしまっているじゃないか。
それは、きっと、「正しく理解する必要がある事象(正しく認識出来る事象)」であり、今の人がまだ理解し終えていない、「未解明の領域」だ。

だから人は怖がるし、畏れを感じて蓋をする。

こんな風にしてしまっている「知らないこと」が多過ぎる。

知らないのに、知った風で、物語で脚色し、夢を見させて、現実を生きられなくしている。


正しい認識の中に、【わからない】が存在すること。

【わからない】は、わからないことの、ままでいいこと。

それ、も含めたリアルな世界で、学び、生きていくこと。知る、ためにするべき努力の形があることと。

人はそれらを定められているはずだと信じている。。。ただ純粋に、シンプルに、神の存在を信じてこそ。。。


「無知」は何より恐ろしい。
想像力が、相手を敵などと見なし、その恐怖心を何倍にも増長させるから。

「無知」は何より恐ろしい。
「病気(妄想)」を病気(妄想)と知らないことが、その人の生きる世界を幻に変えてしまう。

「想う」こと、「イメージする」ことが容易く出来てしまう人間の住む世界は、日常を生きながらアミューズメントパークだ。不要な雑念があちこちに沸いている。

無いことを無いと識別出来ないことも、わからないことをわからないとしないことも、物事がわかるように努力しないことも、実に無益なこと。そして、とても悲しいことだ。

病気を生きる人が、それでも精一杯、その命を燃やしていることを知っているから。
どうかその人が道を踏み外しませんよう。。。
どうぞ、その人を症状で縛らないで見てください。
これ以上、その人の人生を病気(症状)で狂わせないで。

現実社会を生きたくても生きれなかったその人に、病気は病気と教えるだけで、あるとき患者がその小石を拾って自分の人生に放り投げたとき、小石はコロコロと転がり出す。正しい道のりへ。

きっかけを与えること、可能性を提示することこそ、きっと必要なのだと想うのだけど。。。

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