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noteを始めて一年。。。~正しく物事を見通す眼とは~

約一年前にこちらに登録して、投稿開始が2019年11月01日。


ほとんど、日々の金策に喘いでいた私が、お小遣い稼ぎに始めたサイトでもありました。

当時の私は、その2年ほど前から手を着けた、

ガチャガチャやクレーンゲームといった博打にはまり、

友達と旅行に行くために、親から借金までするほど、何かが狂ってしまっていました。

私はその、2017年の夏の旅行で、持っているお金を使い果たすつもりだった。

全てを手放して、身軽にして、再スタートを切るつもりだった2017年。

初めて。。。

人を好きになりました。

否、好きになる前に、自信の無さから萎れてしまったその思いは、

2020年に入るまで燻り続け。。。

私はこのおよそ3年をコレクション収集と称して、散財の限りを尽くしました。

結果、私が実際手にしたのは、

人の手の温もりじゃなく、

ガチャガチャやクレーンゲームなどの景品といった、

温度を発しないもの達でした。

お気に入りのコレクション。。。おもちゃ達。

これらに囲まれ、覆われた日常の中に佇み、

40歳を目前にして、ふと、我が身の老いを覚え、このような生活を変えたいと思い立って、私はnoteに行き着きました。

〝お小遣い稼ぎ〞〝自分探し〞。。。

2019年の11月01日から、必ず、毎週1記事以上はアップしてきて。

ある時、我が身を振り返り、その汚れた心にゾッとしました。

あまりにも。。。辛くて、苦しくて、寂しくて。

私は周囲を言葉の針でチクチク刺して、ある時は、暴れ回っていました。

〝このままではいけない(恥ずかしい)〞。。。

私は、幾つかの記事を削除して、そこから少しだけ趣を変えて再出発し、そこからやはり、毎週必ず、1記事以上はアップして、今日まで続けてきました。

これは今後も変わりません。

少し皮肉屋で、とこか自惚れ気味な私だけど。

その裏付けは、〝見えない努力があるという自負〞からです。

素晴らしいほどの努力はしません。出来ません。自分をセーブし、ブレーキを掛けた(三度目の精神疾患から甦った)29歳からの私。

noteを始める頃にはアラフォーに差し掛かっていたでしょうか。。。

辛い、未熟な恋をして。

私は、人を知り、自分自身にも気付き。

今もゆっくり、成長しています。

人生、半分くらい生きてしまったと思った29歳から。

私はまだまだ、成長していきます。

私は今も、未熟者です。


失った恋ばかりがこれまでの人生に点在しています。

子供のままの、未熟さは。

時に、相手の心まで締め上げて、傍若無人の限りを尽くしました。

子供らしい無邪気な素直さと、自分本意な身勝手さは、自分ばかりでなく、相手や、時に周囲までを振り回し、傷付けて、私はいつまでも自分の愚かしさに気付けずに。

今日まで辿ってきました。

多分、〝本当に好きになった〞から。

ゆっくりと、その自覚や自責、反省の念は、(自由奔放過ぎて、マイペースな歩みの分、ゆっくりと。)私を変えていってくれたのだと思います。

我が儘で頑固な故、誰も頼れずに。

一人きりで、暴れ回って。何より周囲の人が苦労を背負い込んだのかもしれません。

恨み辛みを吐き出しながら。。。

私は同時に、迷惑を掛けた相手や知人の、幸せも願い、

すぐにも倒れてしまいそうな自己を辛うじてコントロールしながら生きてきました。


〝独身が怖いか。。。

独り身、お一人様が怖いか。。。〞

そう訊かれれば、答えはこうです。

〝そうなったときの、他者の視線が、煩わしい。〞

本心は、こう言っています。

〝本当に、その瞬間に望むものだけが欲しいのだ。〞と。


【40歳まで】にどうにかしたいと喘いできた私は、

【他人から宛がわれた定規】に押さえ付けられて、

自問していました。

〝私が心から望むものは何か?

本当は、自分はどう生きたいのか?〞

振り返れば、他人の定規でギュウギュウに、その本音を抑え込まれた私の姿がありました。


怖かったのは、一人で生きていく寂しさじゃなくて。

独身の自分に投げ掛けられる、〝他人の憐れんだ視線〞でした。

私は、それだけが、怖かった。


一人で生きていくことなんて、大変だろうけど、寂しくありません。

今とどんな違いがあるというのでしょう?

だって私は、常に他者へこう願ってきました。

〝私が精神を病んだら忘れてくれ。〞

ただ、それだけの繋がりでした。

永い先の未来までを約束出来ない願いでした。

あるのは〝現在〞、ただそれだけ。私はそこに懸けるしかなかった。夢中になれたのは、今という時間にだけです。


〝私の人生は少しだけ歪なの。〞

私はようやく、そのことを堂々と言うことが出来そうです。


何とか〝他人の評価(定規に沿う人生)〞が欲しくて喘いだ数年間だったけど、終わりにしよう。

そのような〝不自由な生き方〞は。

私は私の人生を私なりに自由にコントロールし、選んでいく。

それは私にしか出来ないし、誰の評価も、私の人生を掬ってくれない、ならばそぅ。。。

他人の思惑に沿って生きるなんて、自分の人生を粗末にしていませんか?

〝他人はあなたの人生の回答者じゃありません。あなたの人生の回答は、あなた自身が一つ一つ、揺るぎない心で決めていくものです。〞

〝何が恥ずかしいのだろう?自分の人生を自分で選ぶのに。他人から見た恥なんて、自分から見た恥と、同じだろうか?違うならば、何がどのように違うのか?〞

〝他人の理解が自身を責め上げるなら、その他人の理解はあなたを完璧に掬うのですか?自分を正しく評価し、理解し得る人は、この世に自分だけです。〞

どうか。。。その、自身の眼をぶらさないで。曇らせないで。

あなたの、自分を見る眼が揺らいだとき、それは、正しく機能しなくなるから。

何事にも、〝真実の眼〞をもって、臨んでください。

(子供のまま走り回った、愚かな自分へ。)

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