人間と動物性
国民性の差異を表す、有名なエスニックジョークがあります。
「アメリカ人が正義を語るのはそれが欠落しているから、イギリス人が紳士になりきるのは卑怯だから、日本人は武士道を以てしてみずからの臆病さを隠している」
仔細な言い回しは忘れましたが、まあおおよそ大意は伝わったでしょうか。いわば国家が声を大にして喧伝するスローガンなんてものはじつは撞着したもので、その皮をえいっと裏返したら、その真の国民性が立ち現れるといった具合です。これはわれわれも気づかずして日常でやってしまう仕草であります。
「キャンプが趣味です」「ゴルフにハマっています」なんて言って、余暇の過ごし方を披露して憚らない手合いがいますよね。私はこんな言葉を信用しません。まあおそらく発言者のある一定はその通りなんでしょう。しかしながら、ここには自己ブランディングなんていう誤謬、嘘の臭気が充満しています。蓋し、かれらは「自分はこうでありたい」という欲望を趣味だとかいう言葉にすり替えているだけなのです。
ただ、かくいう私もこうした欺瞞を隠し持っています。ですから、ここで提起したいのは、そうした仕草へのたんなる否定ではなく、使い古されたエスニックジョークにも表れているように、われわれは自らに内在する欲望をあたかも自らであるように振る舞うことから逃れられないのではないかという命題であります。
私もいくばくかの仕事をこなして日々の生活をなんとか送っているわけでありますが、先日こんなことがありました。ある会議の場面です。偉そうに踏ん反り返ったスーツの巨躯が喧々諤々と、これがいい、あれがいい、と生産性のない会話を延々と繰り返して話が一向にまとまりません。私は「ああ、これがトラディショナルな日本の社会人連中なんだなあ」と感嘆を禁じ得ませんでしたが、こんな光景は我が美しいニッポンでは日常茶飯事なのでしょう。2時間ほどの会議でしたが結論は出ず、持ち越しになりました。オンラインだったのが幸いだったのですが、まあ見事に無茶苦茶な理屈で自分の意見を肉付けする技術において、彼らの右に出るものはいないのだと確信したところであります。
しかしふと、私にはある疑問が湧き上がりました。彼らは是々非々で分つような単純な問い(戦争には賛成か反対かなど)に対して、アプリオリに意見を持ち、そのあとで結論につながるように論理を組み立てるのではないかと。すなわち、論理を追っていった先に矛盾しない結論があるのではなく、実は直感に頼った答えがまず存在し、それを破綻させないように思考をめぐらせるのがわれわれがしばしば行ってしまう所作なのではないかということであります。
なるほど、そうだと考えれば、立場に違いのない同列の連中が議論したところで正解に辿り着くようなプロセスはないんだと説明ができます。そうして導かれた折衷案はたいていろくなものではなく、むしろただひとりの意思決定が(たとえそれに整合性はなくとも)もっともシンプルに優れているとさえ思います。
話を戻しましょう。私はここまでエスニックジョークや偽装した趣味、そして会議のトラディションを紹介してきました。こうした事例を引き合いに出した背景には一貫した主張があります。それは人間には論理に先立つ形で、イデアがあるということです。これは興味深い矛盾であります。なぜならば、われわれ人間存在は内なる動物性を排斥することで、人間たらんと欲するような生き方をしてきたのにもかかわらず、実は極めて動物的な生をうべなっているということが明らかになったからであります。
われわれは「欲望」を遠ざけること、使役することで動物への優越を信じていました。いくら朝が苦手だろうが目を擦りながら労働に勤しみ、太るとだらしないから食事も管理し、セックスには法律という強い規制がかかります。しかしだからこそ、そんな理性があるからここまでの繁栄を勝ち取った。それは事実でありましょう。そしてあらゆるものが飽和した豊かな生を得たのでしょう。ただシンプルな欲望を完全に下僕とするのはあたわなかったということであります。
われわれが支配し、飼い慣らしたと思っていた自己動物は、実はわれわれの中で息を潜めて、しかしたびたび牙を剥きながらわれわれを突き動かしていました。人間はつとめて人間であろうとするという点において、しっかりと人間臭さという野生を宿しているのであります。
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